歩き、み、ふれる歴史学レポート/佐賀市嘉瀬町/中原元町

 

<調査者>

阿部 涼奈

安部 友子

市岡 菜津子

井上 めぐみ

井元 智子

 

<調査先>佐賀市嘉瀬町・中原元町

 池田たかひで さん(大正13年生、72歳)

 

<しこ名>

(田)うめのきじま・・・天満宮跡

   もとだいみょうじん・・・大明神跡

●この大明神は熱の神様で遠方からも参拝者が訪れた。豆腐をお供えして、それを地元の人がさげたらしい。 豆腐をひく→熱がひく、という信仰。

   うとくじ・・・高徳寺跡

   よねぼり・・・およねさんが投身自殺した堀の周辺

   しゅくのうち

   そうじあん・・・掃除庵の跡

   のらき・・・野原を開拓した

   すみ・・・隅の田んぼ

   てらだ・・・瑞光寺の田んぼ

   てんまえ・・・瑞光寺の前

   てんばば・・・参道

   ふつまち・・・これは、漢字はよくわからないが天保の大飢饉の時、瑞光寺で飢え     

   た人におかゆを配っていたことから佛待ではないだろうかということ。

   いじでい・・・築地堤 昔は海だったためしおがはいらないような堤防を作った。

   こうしん

   たかまち・・・高町、たか待 このあたりでは殿様がたか狩りをしていて、その時

   たか将が待機していたところらしい。

   しめんんばば・・・四面宮の参道 ここではやぶさめが行われていた。

   みやだ・・・お宮の領地

   みやひがし・・・お宮の東

   あいりまち・・・魚採りの網か染料の藍かは謎

   いっちょうだ・・・「いったん」がつまって「いっちょう」このあたりは広い田が

   多かった。

   おうぎまちだ

   さりーしいど・・・さらう水道 毎年水がたまってそれをさらっていた

   かせつ・・・船が着ていたところ

     平清盛の時代、流刑になった人が許されて迎えが来た時、しゅんかんという僧

   はそこに残って死んだが、しゅんかんもこっそりつれて帰ってその墓がここにある

   という伝説があるらしい。

   さかれまつ・・・死刑囚とその家族が別れたところ。

     今も松があって佐賀市が管理しているところらしい。

   うまいれがわ

   むらなのた

 

(堀)よねぼり

   まんなかぼり

   にんかわ・・・みる場所によってはひがしんかわになる

   さかんがわ

 

(橋)ゆるぎ橋・・・ゆらゆらした

   きつね橋・・・きつねがいた

   しめん橋

   船橋

   くんど橋

 このあたりの橋は、丸太を渡して竹を並べ泥をのせる土橋だった。何年か毎に補修された。

 

<水利>

 樋門で閉めきり、川をとめ水車で汲み上げていた。現在は電動ポンプで汲み上げている。

 川は高いところは排水し、低いところは取っていた。

 部落境の水は共有し、そうでないところは近くの人たちでグループを作り、どれにも入らないところは個人でやっていた。

 

※もめごと

 干ばつの時は、上の人が川をせきとめ、下の人は分けろと言い、大雨の時は上の人が樋門をあけ、下の人は開けさせまいとして喧嘩になった。

 

※かんばつ

 水は佐賀土地改良区の職員が巡回して調節した。(頭首こう、というもので水をとめ、樋門であちこちに配水)市役所でも話し合って分配した。

 水が足りなくなったのは植えたあとなので、犠牲田はなかった。

 この地域は昔から水が豊富で困ったことはないという。逆に改良区になってから不足するようになったらしい。

 

<村の姿>

(村の耕地)

 湿田はなく、乾田では麦・そら豆・なたねが作られた。

 篭という団地のようなものがあり、松篭・杉篭・柳篭・黒木篭の順に生産力が低くなっている。

 戦前の肥料は大豆やなたねかすを使っていた。

 

(今後の農業への展望)

 今のままでは炭鉱と同じで廃れてしまうだろう。後継者もいないし外国の食糧に対抗するには規模が小さいという問題がある。集約して1軒の規模を大きくしないと生産コストが高くつくし、能率もあがらない、やる気のある人に土地をあつめてやらせるほうがよいのではないか、農機具も200万〜300万して使うのは10日〜20日程度。採算があわないので法人組織にするなどして有効利用することも必要だという話だったが、個人の利害や感情などでなかなか実現は難しいということだった。



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