【佐賀市兵庫町外野・柴野地区】 「歩き・み・ふれる歴史学レポート」 IAG95122■ 篠原史訓、IAG95125■ 柴田勝一郎 しこ名 外野(ほかの) 〇田 しょうさんばやし(正三林) やしきだ(屋敷田) いがやざかい(伊賀屋境) なまずのいけ ごえもんだ(五右衛門田) ながせまちだ みつじだ(光次田) ながれすじ しんごだ(新吾田) ごげ なかだ(中田) ないまつ 〇淵 くだりすじ ながれすじ (〇墓 ほかのぶんのはか(外野分の墓)) 柴野(しばの) 〇田 わさだ にしうら(西浦) やしきだ(屋敷田) しがとりば(椋鳥場) ひがしうら(東裏) (〇墓 しばのぶんのはか(柴野分の墓)) 〇竹やぶ いぬのわらべのはやし(犬童林) 今回の調査で佐賀に行くのは二回目だった。前回、佐賀に行ったのはもちろん『歩き・み・きく歴史学』でのことだった。今回は二回目ということで前回の経験もあったのでたいして不安は無かった。しかし朝、集合時間を過ぎてもパートナーの篠原君はあらわれず、一人で調査することになってしまった、トホホホホ……。十一時頃、現地に降ろされると、まず不安感でいっぱいになってしまった。とりあえず外野方面へと歩く。「旅の恥はかきすて」と自分に言い聞かせながら道すがら田んぼで作業している人々にしこ名をたずねて歩くこと約30分。収穫はゼロだった。五、六人はたずねたはずだ。外野の集落に着いたには着いたがこんなことでしこ名を聞き集められるのか、という不安がよぎる。案の定、民家をしらみつぶしにあたってみるが成果はほとんど無に等しかった。しこ名を一つと昔、光円寺があった場所について聞けただけだった。光円寺は、その昔火事によって焼け落ち、現在の場所に移されたとのことだった。なんでも、もうすぐ移転されて400周年になるらしい。仕方が無いので柴野に行く事にする。来た時と同じようにしこ名をたずねてはみたがまたも収穫はゼロだった。柴野に着いた時にはもう時計の針は十二時半をまわったところだった。五、六軒民家をたずねてみたが全く情報は無し。「もう帰ろっかなぁ。」と思いつつ少し休んでいるとさきほどたずねた家のおばさんが歩みよってきて、「しこ名をよく知っている人がいるのでそこへ連れていってあげるよ。」という内容の佐賀弁をしゃべった。僕はなんて親切な人なんだと感動しつつ、おばあさんの後ろからついていった。目的の家に着き、自分が福岡から来たこと、しこ名の調査をしていること、そして調査が難航していることを話すと、「学生さんが、若いのに大変だねぇ。」と熱心にしこ名の話をしてくれた。つれて来てくれたおばあさんも少しづつおもいだしてきたようで、おばあさんが二人していっしょうけんめいに話をしてくれた。僕ははげしく感動し、こんないい人が住んでいるのなら自分も佐賀に住みたい、とさえ思った。やがて話が終わり、その家をあとにすることがひどく残念に思えた。お礼を言って別れようとしていると、ジュースを差し出して、「暑いからこれ飲んでがんばりなさい。」と佐賀弁で言うのだった。僕は涙がこみあげてくるのを感じながらおばあさん二人と別れた。絶対また来ようと思った。ここでの収穫は柴野での全てのしこ名と、外野のしこ名を知っているであろうおじいさんの家の場所だった。すっかり元気をとりもどした僕は外野のそのおじいさんの家に向かった。ここでがんばらないとおばあさんたちの好意にこたえられないと思った。その家で、今回外野で得たしこ名のほとんどを得ることができた。おじいさんは、うすれかかった記憶を必死に思い出しながら話をしてくれた。突然やって来てしこ名をたずねる男に、こんなに親切にしてくれるなんて、なんていい人だ、と思った。深くお礼を言ってその家をあとにするころには、時計の針は四時にさしかかっていた。 バスを待つこと約5分、バスがやって来たので乗りこむ。体はつかれきっていたが気持ちははればれとしていた。バスにゆられながら、お世話になった人々のことを考えた。おじいさん、おばあさん、また来ます。 |