【佐賀市兵庫町牟田・若宮地区】

 

SI-15 ITE96843■川原義成、ITE96862■牧瀬芳輝

 

しこ名

 

【牟田】

・国相寺:今のミズマチあたりにあった寺が、明治期の廃仏毀釈でなくなった。

・かまや:鎌を作っていた。

・乾住:内川さんの家の西北にあった。

・祭田:12軒の家が、毎年交代でこの田で作物をつくり、その収益を村祭りに使う。村祭りは11月頃。

・すみだ橋:内川さんの家の近くにあった橋のこと。(区画整理の前)

・おおつか

・横枕

・雑返(ぞうがやし)

・たちぼり:内川さんの家の近くにあった堀のこと。

 

協力者 内川國子さん(75)大正10年生まれ、内川行重さん(76

 

 

【若宮】

・新開(しんきゃ):沼地などに新しく田を開いたことに由来。

・宮裏:お宮の裏にある田んぼのため。

・宮前:お宮の前にある田んぼのため。

・勢古:秀吉が名護屋に行くときに通ったところ。「勢」の字は秀吉の勢力を示す。

・不毛(ふけ):他の田よりもいつも収穫が少ない田。

・金工殿(かなくでん):この田をもっていた人が鍛冶屋だった。

・一ノ坪:条里制の時から続く名前。

・硝煙うら:昔、花火、鉄砲などの火薬をつくっていた。鉄砲は、鍋島藩があったため。

・大楠:そこに大きな楠の樹があった。今は切り倒されて、なくなった。

・おえんさん:そこにおえんという女の人が住んでいた。

・小伝寺(こでーし)、大曲(おおまがり)、三万石、そん田、ちから殿、学校ばし、寺前、一本松

・古学校:明治期に小学校があった。

・諸くまさん、六左右衛門、三平屋敷(さんばやしき)、野田、林内(はやしうち)、びゆうがく、三殿野、天神堂

 

 

【水利など】

佐賀平野の水は北山ダムや筑後川が水源であるが、北山ダムの水は3本の川に分かれて下りてくるそうである。僕たちが調査した家の人はそのうちの1本である加瀬川(カシェガワ)から水を引いているそうである。1つの時期に必要なだけの水を引くには150200万もかかるそうである。

 

僕たちが調査した田中さんの話では、1994年の大渇水のときにはあまり困らなかったので特に対策を練ることもなかったそうである。田中さんのお宅は比較的山に近い方にあるためだそうである。困ったのはむしろ海に近い方の人たちだろう、とも言われた。

 

では、30年前に同じような大渇水が起こっていたら?

30年前でも、ある程度の整備はされていて、今とあまり変わらなかったので、たぶんそんなに困らなかっただろう。(田中さん)

 

非灌漑時期のゴミとりは、今はあまりやっていない。兼業農家が増えてきたのでゴミとりをする余裕はなくなったそうである。そのためヘドロがたまり、水質が悪くなったそうである。しかし、米質には水質はあまり関係ないとも言われた。もっとも、山の方ではCa2+〔カルシウムか〕を多く含んでいる水を使うこともあるが、これは米質にも多少影響するらしい。(田中さんの長男)

 

 

【村の耕作】

湿田があるのは佐賀平野でも海に近いところだけだそうである。それ以外はほとんどが乾田で裏作では大麦や小麦を作っている。

 

 

【雑談】

 昔はすべて手作業で大変だったが、今は電気、機械を使うのでその経費がかかる上に、水代もかかるので農家は非常に大変だ。(田中さんの長男)

 

 カン、ビンを田ん中に捨てる人には本当に腹が立つ。自然破壊になるし、何より、手作業をするときにけがをすることもある。自分のゴミも持ち帰れない人がいるのは、やはり現代人に心のゆとりがないからだと思う。(田中さんの長男)

 

 村には自主的な消防団があり、年に数回消防の訓練をする。また、何度もサイレンを鳴らしてその地区の消防隊に知らせたりもする。(田中さん)

 

協力者:田中正人さん(大正11年生まれ)、田中さんの長男の方

 

7/18(木)

 

 

【現地調査をして思ったこと】川原義成

現地調査をして深く感動したのは人々の心だった。

 僕たちは最初に声をかけた人から公民館に行ってみるといい、と言われて、公民館にいったのだが、そこで1時間半以上も費やしてしまった。実は僕たちの事情を知った公民館の事務の人が真剣にどうしたら良いかをいろいろと考えてくださったのである。結局僕たちはその事務の人を始めとする多くの人の協力を得て、ある人を紹介していただき、公民館を出たのだが、協力してくださった人たちに心から深く感謝せずにはいられなかった。もし僕たちが相手の立場だったら1時間半も何も知らない大学生のために考え込むことができただろうか。僕たちにはそんな心のゆとりなんてないに違いない。

 あちこち歩き回って僕たちはある老人とめぐり会えた。この老人も僕たちに大変親切にしてくださった。彼は僕たちに出会えたのがとても嬉しかったらしく、ずっと僕たちの相手をしてくださった。途中から彼の長男も加わってくださったおかげで調査が進んだ。結局ここでは2時間ぐらいお世話になってしまった。本当に感謝している。

 僕たちはこの1日でどれだけの人に親切にしていただいたか、数えきれない。そして、11人の親切さははかりしれないほど深いものだった。これらの人たちには感謝してもしつくせない。そして僕はふと、福岡ではどうだろう、と考えた。福岡の人々にいろいろなことを尋ねても同じぐらいの親切な心を持って応えてくれるだろうか。僕は悲しくなった。福岡の町中ではそのような心には出会えそうもない。人々の雰囲気が全く違うのである。佐賀で出会った人たちは誰もが素朴で純粋そうだった。そして、何より、話しかけやすいのである。しかし、福岡の天神の人たちはどうだろうか。彼らには話しかけがたいものがある。彼らは人間らしくないような気がするのである。たぶん僕も福岡にいるからには同じようになっているだろう。そういえば佐賀の人たちの目は福岡で見かける人の目よりも澄んで輝いていたような気がする。

 

 現地調査でもう一つ深く感じたのは自然の豊富さである。田んぼのあぜ道を通ったときには小学生の頃を思い出して懐かしい気持ちに浸っていた。僕の家もかなり田舎で小学校には2.5qを歩いて通っていた。学校の行き帰りによくあぜ道を草の茎を武器のように降りまわしながら歩いたものだった。佐賀ではまわりに全く人がいなかったので草の茎をふりまわしながら歩いてみた。懐かしくて涙がでそうだった。

 台風の影響で風が少し強かったが、空気がとてもきれいだったし、日ざしは小さいころ浴びた日ざしと同じだった。

 若いうちは活気のある都会で暮らしたいけど、年をとったらいなかで自分の子供時代を思い出しながら、自然に囲まれて暮らすのもいいだろうなあ、と思った。

 

 

 

【調査の過程と感想】牧瀬芳輝

 見知らぬところにいきなりいかされ、最初はめんどくさくもあり、不安であった。しかし帰るときには、けっこういい旅であったと思った。というのもあった人々が全員親切な人であったからだ。

 

 牟田の集落を歩いていると、内川さんにまず会った。見た目ががんこそうなので、最初はあまり話したくないと思ってしまった。しかし、家につれていってくれ、土地のことに詳しい奥さんに会わせてくれて、いろいろと教えていただいた。非常に優しい方だった。その話の中で、今はミズマチという農作業用品店となっているところは、明治時代まで国相寺という寺があったらしい。その国相寺は廃仏毀釈でなくなったという。自分らにとっては廃仏毀釈というのは文字だけの存在であり、どういう内容であったかということしか知らなかったが、そういった事実を知ると、活きた歴史として自分の心の中に入った。今まで歴史は全く現実感のないものであったが、地元の人には現実であったのであり、今も息づいている。最初に会った人に、生きた歴史を教わるとは、とてもうれしく、勉強になった。

 

 さて内川さんはあまり知っておられないということで、よく知っておられるという石丸さんという方の家の場所を聞いた。そして牟田公民館には村史があるという。石丸という家はあったが、なんとなく不安なので、先に公民館に行ってみた。そこでちょっと村史を調べたが、調べたいことがあまりのっていなかった。自分らには石丸さんしかあてがなかったのだが、いろんな知ってそうな人々に電話をかけてくれた。館長がよく知っておられるそうだが、残念ながら不在であった。その公民館は清潔なつくりで、周りの人間から考えると、驚くほど、活用してあった。多くの部屋が習い事や話し合いで使われていた。福岡の方が人間が多いのに、その使い方がかなり違う。ふんいきもかなりよかった。公民館の方々が親身になって考えてくれて、よそから来た見知らぬ人間に対してそこまで考えてくれるとは、とてもうれしく、人間の良心を感じた。石丸さんは病気らしく、他の人もいそがしいということで、若宮地区の真崎さんを紹介してくれた。そこまで200mもないが、わざわざ地図のコピーをしてくれて、しかも赤鉛筆で道を示してくれた。本当に親切だ。

 

 34号線を渡り、真崎さんの家に行くと、詳しい方が不在であったので、家の方が田中さんを紹介してくれた。田中さんと息子さんと話していると、1時間半以上もたっていた。今回の調査で調べたことの大半が田中さんに教わったことである。しこ名について考えると、勢古にも驚いたが、一番驚いたのは一ノ坪である。条里制のころからの名前らしい。1300年前ほども昔である。先にも書いたが、歴史というのは今まで本当に現実味のないものに感じられ、三国志や春秋戦国期の話は物語ほどにしか思われなかったが、千年以上も前からの各時代につけられた名前が脈々と伝わっているとはまさに驚き以上のものであり、まさに歴史とは、みずみずしい生き物であると思った。歴史の大きな流れを感じた。本当に歴史の中で人は生きてきた。本当に存在したものであったのだ。そのように考えることができただけで、この旅は得るものがあったと思う。それだけでなく、人々の良心にも感激した。とてもうれしい。台風が九州に上陸してせまっていて、いそがしいであろうのに、多くの時間を割いて下さった。しかも全くいやな顔もせずに快く。農家の方は今も歴史をになう人である。画一的な区画整理があってもぜひ歴史を生きたままにしていってほしい。本当によい調査だった。

 

 

 

 



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