【佐賀市兵庫町 牟田寄・千住地区】 しこ名調査レポート 1AG95097■草野大輔、1AG95110■近藤将人 今回の調査で自分達は瓦町の下分一(牟田寄)、下分二(千住)の二地区を担当した。まず、しこ名については、いくつかについてその名の由来を聞くことができたので、まずは報告しておこうと思う。 <下分一> ・鋤先:一部がとがっていて、牛にひかせて田を耕やすのに使う鋤という道具の先端に形が似ていることから。 ・東島ノ裏:東島という部落に隣接していて、彼らから見るとその田は裏側にあることから。 ・八幡井手:井手とは、中が空洞になった丸太を水道管がわりにしてクリークとクリークをつなぎ、その上に土をかぶせて通行できるようにしたもの。 八幡井手はそこにある井手の名で、いつしか田んぼのしこ名としても使われるようになった。 ・ちやのき:橋の名前。 ・光明寺:寺の名前。 ・前田:自分の家の前にあることから。 <下分二> ・観音様:そう呼ばれる地蔵があったため。 ・くだい:焼原川をくだいというらしい。自分の家から見てそのくだいの向こうにあったため、その田ん中をくだいと呼ぶようになった。 ・前田、西田、北浦:家の前・西・北(裏側)にあったから。 ・左様神:その名の地蔵があったから。 ・六地蔵:橋の名前 この地域では平成元年から圃場整備が行われ始めた。それまではしこ名は使われていたらしい。まだ数年前のことなので、思い出すのにもそれほど苦労はしなかったようで、こちらとしてもかなり助かった。圃場整備も八年度に牟田寄の南東部を整備して完了する。 クリークの名前については、ほとんどそこのしこ名で呼ばれていて、いちいち名前はつういていないとのことだった。 水源は嘉瀬川(現在は川上川とも呼ばれているらしい)で、クリークよりも高い所にある田には水車をつかって水をあげていた。クリークにところどころあるでっぱりは水車の跡だということだった。 今回の調査では、地元の方々に本当にお世話になった。無理をいっての訪問にもかかわらず、暖かく迎えていただき、前もって人を集めておいてくれていたり、車で圃場整備前の水田へ連れていってもらったりもした。戦争の体験談を聞かせていただいたり、地元の料理をおそわったり…。お世話になった様々な方に感謝しつつ、レポートを終わりにしたいと思う。 |