【佐賀市兵庫町 伊賀屋・中野吉地区】 歴史と異文化理解A 1EC95056■黒田 愛、1EC95059■高口雅子 1. 聞取の方法 伊賀屋・中野吉ともにお宅を訪問し、そこでお話を伺った。実際に歩きながら説明していただいたわけではないが、地図上での位置も常に確認をしていたし、当時の地図も持参していただいたので、何ら問題はなかったと思う。 2. 伊賀屋 (1) しこ名等の由来 境土井(さきゃんでー):佐賀市と神埼郡の境界線からきたもの。 境端(さきゃあばた):境土井のすぐ隣にあるため。 祭田(まつりだ):昭和25年くらいまで米の収穫祭が行われていた。当時は持ち回りであったが、しばらく後はある農家が買い取り、それ以来行われていない。 おむらさんやしき:昭和30年くらいまで(定かではない)、おむらさんという方の屋敷があった。それ以後、おむらさんがいなくなってもずっとこう呼ばれているという。 (2) 水利の様子 現在:北山ダム、焼原川の自然水を用いる。地図中に●で示した灌水器から水を汲み上げている。 94年の干ばつ時:夜中3時間交代で3人ずつ“くやく”。自然に水が流れる力だけでは田に水が流れないので、ポンプで汲み入れる。伊賀屋は南に行くほど低い地形であり、地図中の矢印→で示した方向に水が流れるために、境端、中ノ堀がとくに水が不足した。 30年前にも94年と同様の干ばつが起きたとしたら:94年の干ばつの際と同様のやり方である。伊賀屋の灌漑施設の完成が昭和30年ごろのため。 もっと以前だったら:水車、発動機を用いた。 (3) 肥料について 現在:化学肥料のみ 戦時中:堆肥、厩肥(佐賀市内の町まで汲み取りに行った)。堀の泥土(「泥土あげ」昭和42・43年ごろまで)。 (4) 裏作について 伊賀屋の田はほとんどの農家が裏作として麦を作っている。すなわち、乾田ばかりである。昔から乾田であったが、当時は手作業であったために労働力不足で、裏作をする農家は少なかった。機械化(コンバインを導入)してから本格的に麦が栽培されるようになった。 麦というのは、ビール麦を目標として作られているが、その検査にパスできる麦は5%にも満たないという。パスできなかった麦は家畜の飼料となり、収入は大幅に落ちるという。 (5)1反あたりのとれ高 豊作の時:12俵…意外にもここ最近の中での大豊作は94年の大干ばつのとき。 凶作の時:6俵半〜7俵…93年の冷夏、夏雨。タイ米輸入に悩まされた。 平年(’95):9俵 (6)今後の農業について 現在、伊賀屋ではまだ圃場整備が行われていないが、農家の側から見れば、喜んで賛成はできないそうだ。農家に金額の面で大きな負担がかかるだけでなく、昔から伝わってきた田の風景やしこ名が失われていくのは大変寂しいことだという。整備にかかる費用は1反(10a)当たり、130〜150万で、そのうち農家負担は15%だそうだ。少ないように感じるが、広い田を所有する農家にとっては大きな負担額になり、悩みのたねであるようだった。また、整備中の1年間は作物を作ることができないという問題もある。整備後は、今まで個人で行っていた収穫米の乾燥調整も、地区でまとめて行われるので、そこでもまた金額の負担がかかる。 圃場整備計画と同時に減反も進められている。減反の後の田では大豆が栽培されているが、米と違い、機械化も進んでおらず手間がかかるという。大豆を蒔く適期は7/10~7/20と限られており、この時期に雨が降ったり、気温が適切でなかったりして、うまく蒔けないと、収穫量はガタ落ちするそうだ。もちろん、収入も米の方が良い。10年ほど前に集団転作(転作地を地域で1つにまとめること)を試みたが、その年だけで終わってしまい、今では散在転作をしているそうだ。 今後の問題としては人手不足がやはり一番の問題であるという。伊賀屋で最も若い農家の方は44才だそうだ。これからどんなに機械化が進んでも、こなさなければならない仕事量には限界があるという。例えば稲刈りなどは、ほんの短期間終えてしまわなければならないから、機械があってもそれを動かす人間がいないとどうにも仕事は進まない。かなり深刻な問題であるようだった。 お話を伺った方:江島孝高さん(昭和16年生まれ) 3. 中野吉…もともと武家屋敷が立ち並んでいたため、周囲には堀の名残がある。 (1)しこ名の由来 にのいずみ:「二の折の隅」ということから。 はかんうしろ:すぐそばに墓があるため。2丁5反ある。 ぎおんさん:今では天満神社に寄せ宮されたが、昔は祇園さんが祭られていた。京都の祇園と関連があるかもしれないとのこと。 ごんみゃあならび:田ん中が五枚並んでいたため。 へこだ:へこ(ふんどしの呼び名)にように横に細長い田であるため。 伊賀屋屋敷:実際には駅は中野吉にあるが、勢力は伊賀屋の方が強く、生産会長などのお偉い方が伊賀屋のほうにいるから、中野吉駅ではなく、こうなった。 長井手(ながいで):県道の呼び名。井樋の代わりとして使用できるように、わざと道路を低く作った。 のんぼり:中野吉の上にあることから。個別の田を表している呼び名ではなく、にのいずみ、ひゃあまき、さんだんがく、はかんうしろ等の田を含むその辺り一帯の総称。 もうたぎわ:灌水器(地図中の●)のそばの田であることから。モーターぎわ。 (2)水利の様子 昔から北山ダムより水を引いている。 94年の干ばつ時:ポンプで十分こと足りた。 30年以上昔に干ばつであったら:川さらい、いちのえ。 (3)肥料について 現在:化学肥料のみ。また、石灰をまくと、田がアルカリ性になり、本来なら吸収されないはずの肥料も吸収されるようになる。しかし、石灰を入れすぎたために、土地がやせ、米がとれなくなっていった。加えて、今回の圃場整備で石灰をまくことが定められているため、ますます土地がやせている。 戦時中:堀につまっている泥土。 (4)裏作について 伊賀屋と同様に麦を栽培している。中野吉の田も乾田ばかりであるが、米に関して言えば、線路より上の方が多く収穫できる。田にとって、米を収穫したあとしばらく土地を休ませるのが最も良いのだが、馬で耕していた時代に比べると労力はずいぶん少なくてすむようになったので、ほとんどの農家で裏作をするようになった。 (5)1反辺りのとれ高 豊作のとき:10俵 凶作のとき:7俵 今年:9俵 (6)今後の農業について 馬を使って作業をしていた頃に比べると労力は5分の1以下になったという。仕事はかなり楽になったが後継者が見つからないのがいちばん深刻な問題だそうだ。今回のお話を伺ったお二人の時代には、家長制度が残っていて、長男が家を継ぐのが当然で、上級の学校に進めるのは次男以下の者だけだったそうだ。しかしそれでも、家の財産は全て長男の自由になったので、後を継ぐのが嫌だとか言う人はほとんどいなかったようだ。それが今では時代が変わり、財産は子供たち全員で相続する時代になった。長男は少ない金額で田を背負わなくてはならなくなる。また、長男とか次男に関係なく進学するようになった。これが後継者不足の原因の一つであるとお二人は言っておられた。 そして、お二人とも圃場整備には反対であるそうだ。やはり、負担額の大きさが原因であった。 お話を伺った方:真島正彦さん(昭和5年生まれ)、藤島 正さん(大正9年生まれ) |