【佐賀市兵庫町 東淵・野中地区】

 

歩き・み・きく歴史学レポート

1LA95088■久保 浩、1EC95216■岡崎孝広

 

<東淵>

 東淵では西川さん宅を訪問しました。

 生産組合長である西川さん、自治会長さん、役員さんの3人にお集まりいただいてお話をうかがうことができました。

 

・しこ名について

東淵のほぼ中央あたりに、堀のように水路がめぐらせてありますが、これはそのむかし、豪族の屋敷があったそうです。そのせいか、しこ名の中に蔵屋敷、蔵前といった蔵の名がついていたり、射場ノ後いうような変わったしこ名がありました。数字がそのまましこ名になっているのは二十四と三十六の2つしかありませんでした。あとはそこの田のまわりの特徴的なものがそのまましこ名になったものが多いようです。カワッタや、ヤオチンといった意味のわからない(地元の方もわからないそうです)ものもありました。

 

・水利について

 東淵地区は水で困ったことはないらしく、かえって干ばつの時には他よりも米がよくとれたそうです。そのため、せきを作るときは、土のうを積んではいけなくて、砂でしかつくってはいけないとの決まりがあるとのことでした。また、水が豊かということは、大水のときに大変だそうで、三日三晩堤防がこわれないよう寝ずの番をしたりと、苦労が多いとおっしゃっていました。干ばつのときの水の番の話では、殺人も起きていたそうです。水利の話を聞いていると、必ず「成富兵庫重安〔成富兵庫茂安カ〕」という名前が出てきました。そのむかし土木事業で有名だったそうで、肥後の加藤清正もその才を欲しがったそうです。その人の名をとって兵庫町になったということを大変誇りにしておられました。成富重安(茂泰?)のつくった水路のほうが、あとからつくった県のそれよりはるかに頭のいいものだともおっしゃっていました。また東淵の北の方(東淵ではない)には、五十五町の犠牲田があって、大水のときには佐賀平野を守っていたそうです。この田はほかよりも税率が安かったそうです。

 

・おまけ

 西川さん達は東淵の地図、村史などを聞いていろいろと教えて下さいました。思い出せない所については電話で問い合わせてくださいました。自治会長さんの話では、消えゆく昔の名前を保存することは非常に大切だ、ということを教わりました。また、佐賀大学の学生も二・三年前に来たそうです。

 

・しこ名の由来

 佐嘉見(さがみ):この地から佐賀一帯を見渡すことができたことから。

 鶴樋(つるいび)又はにしんそ

 八ノ森(はちのもり)

 名護院(みょうごいん)

西ノ田(にしのた)

カワッダ

茶園畑(ちゃえんばたけ):以前は茶園であったから。

 北田(きただ)

 梅ノ木林(うめのきばやし):梅の林があったといわれている。

 新水道(しんしいど):そばのほりを新水道と呼ぶところから。

角屋(すみや):角にあるから。

境端(さかいば):村の境界にあったから。

六田ゾウ(ろくたんぞう)

避病院(ひびょういん):以前、隔離病棟があった。

周路(しゅうじ):周りをとり囲むように道が走っていた。

やおちん

長オサ(ちょうおさ)

猫橋(ねこばし):そばにかかっている端を猫橋と呼ぶことから。

三十六(さんじゅうろく)

布毛(ふけ)

庵ノ橋(あんのばし)

クジャーバシ(くじゃーばし)

平礼(へいれい)

藤流(ふじながれ)

大神宮(だいじんぐう)

蔵屋敷(くらやしき):以前、豪族の蔵があったから。

蔵前(くらまえ)

内園(うちぞの)

端ヶ待(はしがまち)

古河(ふるこう):そばにある堀を古河と呼ぶことから。

高丈(たかじょう)

松ノ内(まつのうち)

鍬先〔鋤先カ〕(すきさき)

貝田(きゃーだ)

二十四(にじゅうし)

二丁田(にちょうだ):二丁あることから。

天満宮前(てんまんぐうまえ):そのまま。

廟(びゅう)

天神角(てんじんかく):天神様をまつっていた土地。

五反角(ごたんかく)

狐土井(きつねで)

射場ノ後(いばのうしろ):しゃげきじょうがあった。

大橋(うーばし):そばにかかっている橋を大橋と呼ぶことから。

三ノ角(さんのかく)

袋田(ふくろだ)

八ノ角(はちのかく)

十ノ角(じゅうのかく)又は一本杉:以前、杉の木があった。

上リタテ(のぼりたて):坂になっているから。

荒野(あれの):荒地であったらしい。

 

 

<野中>

 ※訪問先の野中さんのお話によると、私達が来る前に九州大学の学生が来たらしく、お話はそちらの方にしたとの事でした。よって野中に関する情報はありません。何か手違いがあったのでしょうか。

 

 

<感想及び行動記録>

 バスの到着が少し遅れたためか、少し焦ってしまって道を間違い、西川さんのお宅に到着するのが遅れた。西川さん達のお話をうかがった後、お昼をごちそうになった。少し予定が遅れたので慌てて野中さん宅に向かうも、また道に迷う。先方に電話を入れつつ道を進み、やっと着いたと思えば、他の学生が先に来たとのこと。バスの時間にも間に合わず、結局佐賀駅まで歩くハメに。途中まで野中さんのお孫さんに車で送ってもらいました。ありがとうございました。福岡までは高速バスで帰って来た。すべての失敗は2人とも極度の方向オンチだったこと。時間と太陽で方角を推測するといった原始的手段で田んぼを横切るのであった。それでも得るものは多かったと思う。



戻る