【佐賀郡富士町大字下無津呂長谷・北川】

歴史と異文化理解Aレポート

 

ST-14 1TE96800  大西一彦

ST-14 1TE96811 高橋浩一郎

 

<しこ名一覧>

坂西さん(S16.8

【長谷】

1.みずくみ 2.ひぎゃーし 3.えびら…※ 4.かみのうえ…※

嘉村又左ェ門さん(T8.1

【長谷】

1.こだけ 2.うちのうど 3.くぐるき 4.のんたに 5.ひろた 6.たのかしら 7.えのきのくぼ 8.みずくみ 9.なみさか

 【北川】

  1.どくろ 2.うちごせ 3.北川の上

満行八千代さん(S29.5

 【長谷】

  1.みのだ 2.たにがしら…※ 3.ひらいし…※

※長谷のしこ名の中で、同じ場所なのに人によって呼び方が異なるものがありました。地図では、両方を書いています。〔入力者注:地図なし〕

 

 

714日、午前1029分、富士町の一軒茶屋に降りたった我々は、雨の降る中、北川へ向かった。12軒まわって水田のことについて詳しいという方に会うことができた。

その方の家へお邪魔して、23ヵ所教えてもらった。そこで我々は、ご協力に厚く感謝をしていることを申し上げ、その家から失礼した。お名前はその方の都合により記載しない。そろそろ、昼飯時であるので、昼飯を食った。その後、水田に詳しいと教えられた人の家を訪ねたが、留守であった。北川での調査は成功とは言えない。時間のこともあることだし、また後で来ることにして、我々は長谷へ向かった。

長谷まで1520分と、さほど時間はかからなかったが、たいそうきつい坂であった。この頃には晴れ間も見え始めていたので、かなり暑かった。さて、この長谷では、私(大西)が聞き役であった。先の教訓を活かし、「田んぼの通称」で聞いた(良かったのかどうかは分からない)。はじめの家で「あぁ、そういうの(田んぼの通称)はあるね。区長さんに聞くのが一番早い」と言われたので、一番奥の区長さんの家を訪ねた。 

区長さんは坂西さん(生年月日S16)といって、いきなりのことに驚いた様子であったが、地図を指して3つ程教えてくれた。山や川に特に名前は付いていないらしい。他にも聞くことはあったが、出かける直前であったようなので、感謝の言葉を申し上げ去った。

長谷すべての家をあたったが、留守だったりして、結局得られたのは坂西さんの教えてくれた3つだけだった。これではダメだと丸田の辺りも調べようと、丸田の人家を訪ねた。その家の人自身は知らないが、詳しい人を紹介してくれた。その人こそ、富士町の歴史・伝統・文化の権威者だったのだ。その話はパートナーが書いてくれているので省く。

さて、その人の家を後にして再び北川へ向かっていると、先に会ったD1の西田さんが長谷に詳しい人が家に帰っていると伝えてくれた。我々は再び坂を登って長谷へ向かった。農作業中にお邪魔して、満行八千代さん(生年月日S29.5)に聞くことができた。だいたい今まで調べた名であった。

(大西)

 

 

<名前>嘉村又左ェ門さん(生年月日T8.1

<しこ名一覧>

【長谷】

 田:こだけ、うちのうど、くぐるき、のんたに、ひろた、たのかしら、えのきのくぼ、みずくみ

 山:なみさか

【北川】

 田:どくろ、うちごせ

 山:北川の上

<当日の行動>

 北川では、しこ名についてほとんど聞き出すことが出来ず、途方に暮れていました。しかし、じっとしていても仕方がないので、小さな神社の境内で昼食をとり、長谷へ向かうことにしました。そこでの聞き取り調査で、嘉村又左ェ門氏が付近の田のことに最も詳しいことを教えてもらい、早速向かいました。

 訪問すると、一足早く比較社会文化研究科の西田さん(D1)が来られており、資料について調査していて、私達としても都合が良かった。ただ、嘉村氏本人は法事に行っているとのことで、すぐには会えず、かと言って私達もここ以外には調査が出来ないと判断したため、家の中で待たせて頂くことにしました。その間、西田さんと我々との間で情報を交換したり、西田さんは黙々と古文書をカメラで写していました。家にいた方には、こちらからいきなり押しかけたにもかかわらず、果物やお茶を出して頂き、また、嘉村氏が戻って来られるまで、自分達の調査に協力できそうな人をいろいろ探してもらい、迷惑をかけましたが、とても嬉しかった。我々としては嘉村氏以外にも聞けたら良かったのですが、ほとんどの老人がゲートボールに行っているとのことで、多くの人に話をうかがうことが出来ず、とても残念でした。

しかし、幸いにも、嘉村氏は予定よりも早く戻って来られ、早速話をうかがいました。そこで得た調査内容は私達の予想をはるかに超え、いろいろなことを詳しく教えてもらいました。以下、調査結果について記したいと思います。

 

<調査結果>

1.      山・谷は数がとても多いので名前はほとんどついていない。村の中では、人と話す時、山を名前でさすのではなく、指をさして、「あの山は…」で通じるので、11つに名前をつける必要がないそうだ。

2. 嘉村氏は特に、村の水利について私達が質問する内容に丁寧に説明してくれました。  その話によると、村の水利は川から引水するのではなく、出水(谷・山からの水)だけで全てまかなう自然水利であることが最大の特徴であり、井堰がたくさんあります。用水の配分等については、出水を引く際、1つの堰には1つの水路のみしかなく(単一水路)、また、地元の慣習によって水路の変更もないため、水争いはないということでした。即ち、別の村と水を共有することがなく、単独使用であるために、トラブルも水争いも全くないのです。そして、この状態は現在でも慣習法という法律によって守られています。別の水源として考えられる溜池は、村の中を移動する時に我々もいくつか見ましたが、小さなものしかなく、名前はついていないそうです。

※水をせきとめる堰のことを、頭首とも言うそうです。

3.      1994年の水不足についても併せてうかがいました。それによると、以上のように近くに川がないため、この村の宿命としてこの年はあきらめたそうです。しかし、秋の収穫期には嘉村氏の田では10俵近くの米がとれ、豊作でした(通常では7俵ぐらい)。

4.      村の入会地は、現在解消されており、法律でも慣習として通用しています。

5.      村の水田の良田・悪田について。嘉村氏の話では、場所によって良田・悪田の差が生じるが、地図上の確認となると、1つの田の中でも差が生じるので、地図の上ではっきり断定することは難しいということでした。

 

嘉村氏は法律にとても詳しく、村の水利と慣習、慣習法の関係について専門的なことまで教えて頂きました。我々は工学部ということもあり、分からない部分もありましたが、それでも貴重な時間を削って親切に説明して頂き、本当に感謝しています。

(高橋)



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