【佐賀郡富士町古湯・貝野地区】 歴史の認識現地調査レポート
S1-14 1TE96801 尾崎義太郎 S1-14 1TE96815 長友義幸
○市町村名 富士町古湯(大字)、貝野
○古老 山中濶(ひろし)氏 ☆プロフィール 大正10(1921)年11月生。満74歳。太平洋戦争から復員後、34人の生き残りとともに甲斐野(現貝野)の発展に尽力する。昭和40年ごろから貝野で使われているしこ名の調査を行う。筋力の衰えを全く感じさせない身のこなしは若き日の氏の姿を彷彿させた。貝野の民からは“仙人”とあがめられる。
○しこ名 ・田 水尻(みなじり) 上川原(かみごうら) 下川原(しもごうら) 貝野向(かいのむこう) 野畑(ぬばたけ) 茶木野(ちゃのきの) 櫓木谷(ろぎたに) 清六谷(せいろくだに) 詰(つめ) 双又(ふたまた) ※現存せず 稲切(いなきり) 平石(ひらいし) 御民田(おみんた) 小吹(こふけ) 貝野前(かいのまえ)
・畑 川原田(こうらだ) 道風(どうふう) 馬子坂(まごのさか) 石割田(いしわりだ)
・山 大尾の辻(ううおのつじ) 船石(ふないし) 七つ釜(ななつがま) 高良谷(こうらだに) 岳(たけ) 城山(じょうやま)
・滝 えのは返し
○当日の行動 バスを下車、雨宿りをし雨足が弱まったので、貝野を目指すこととなった。地元の人に道を尋ね、急な坂道を登り続け、20分程歩いてようやく到着した。民家を訪ね、しこ名等を聞こうとしたところ、さらに坂を上って山の方へ行くと、山中さんという村の事は何でも知っている仙人のような人がいるからと言われ、山中さん宅を訪れた。突然の訪問にもかかわらず、さらに午前中に農作業をしてきた後だったにもかかわらず、話をしてくれることになった。初めは、山中さん宅で話を聞いていたが、山中さんが昔、貝野の事について調べた資料が公民館にあるとのことで、公民館まで連れて行ってくれることになった。公民館に行く途中、貝野に残っている石碑などを参考のため案内してもらえた。その石碑の中に年号が享保となっているものがあり、その石碑には『貝野』という字が『甲斐野』となっていた。昔は『貝野』ではなく『甲斐野』と呼ばれていたと教えてくださった。その他の石碑としては、太平洋戦争の慰霊碑や天照大神宮の石碑などがあった。その後公民館に到着後、山中さんが昔まとめたという資料を見ながら様々な話を聞くことができた。山中さんは僕達の質問にすぐ答えてくれて、とてもしっかりとした方だった。以下その内容をQ&A形式で書いていくことにする。
Q:貝野地方はいつごろ開拓されたのですか。 A:今から500年程前の応仁の乱後、中央の戦を避けようと地方に移り住んだ人々によって開拓された。
Q:農業について教えて下さい。 A:最近は機械化が進み、農作業の時間が短縮され、2戸をのぞくほぼ全戸が農業は土日に行う兼業農家となっている。専業農家の2戸は乳牛を飼育している。跡取り問題はしっかりしていて当分心配はない。昭和45年ごろに岳の田んぼと高良谷と呼ばれる所を湿田から乾田にしてからは、かなり安定している。1戸平均で田は1町山は15町程度あり、これは富士町の中ではトップクラス。付近の山のほとんどは入会山でその中に個人の土地が少しずつ点在している。明治初期ころまでは野焼きをしていた。
Q:水問題について教えて下さい。 A:主な水源である貝野川は水が豊富で、水問題の争いはなかったと聞いている。山の方で水が引きにくい所は提という用水池のようなものがあって、そこに水をためておく。
Q:その他農業で問題点はありますか。 A:兼業農家が増えてきたということで、昔は田植えなど共同で作業していた事が、集まりが悪くなってやりにくくなっている。
Q:地図にある城山とは何ですか。 A:戦国時代の山城のあった跡地。
Q:最後に、どうして貝野のことを調べようと思ったのですが。 A:田んぼの呼び名や山の呼び名は、昔は誰でも理解できていたけれど、私の孫ぐらいの年齢の子たちには、ほとんど通じなくなってきているので、呼び名がなくなってしまわないように、また、なくならないうちに、まとめておこうと思ったのです。
○調査を終えて 初めて佐賀に行く計画を聞いたとき、今さらそんな田舎に調査に行ってどーすんだ、と思ったものだ。自分の担当である貝野の地図をもらったときも、どうせ過疎化の末期だろう…と考えていた。だが、現地を訪れることでそういう考えを打破することができた。そこには敗戦のさなか水田開発に努力した人々の老いた姿と、その子孫たちの逞しき姿があった。山中氏の屋敷から公民館に向かう途中に、この地から戦地へ旅立った41名の名がほられた石碑があった。山中氏を含めた生き残り35名の共同製作だという。51年前…山中氏は23歳だ。僕はしばらく石碑を見つめ、横にいた山中氏を見た。山中氏の目は、石碑のはるか向こう、戦争という理不尽と戦っていた頃を見ているような気がした。「しこ名」は山中氏の孫の代にはもう通じないのだという。時の流れとともに消えてゆく伝統と文化、その一端をかいま見たような気がした。最後に多忙の中、調査に協力してくださった仙人山中氏に感謝の意を表してレポートのまとめといたします。 1996.7.15
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