【佐賀郡富士町馬場、宮ノ馬場地区】

しこ名の調査報告

 

S1-29 1AG96155 中園健太郎

s1-29 1AG96140  遠山昌之

 

T.調査地…富士町馬場・宮の本(宮の馬場)

 

U.調査にご協力していただいた方…馬場昭夫さん、60才すぎ位

                 馬場一郎さん、70才半ば位

                 藤田伝四郎さん、70才位  その他数名

 

V.しこ名の一覧

 前田(マエダ)

 冬水田=古水田 ※一年中、冬も水を残した田ん中

 川窪(コクボ)

 浦田

 開(ヒラキ) ※山を切り開いて造った田ん中

 持田 ※土を盛り上げて造った田ん中

 池ノ尻(イケノジリ)

 ウソノ

 井手口

 七郎河原

 トコロノサコ

 ナギオ

 中尾

 花の口=花の木

 浦の平

 西の谷(ニシンタニ)

 辻

 堂の隈

堂の浦

 サヤンモト

 サシキ

 クロウ

 小峠(コトウゲ)  [以上 田ん中のしこ名]

 

 権現山

 大辻山

 アダサンヤマ  [以上 山の名]

 

 大串川

 神水川(しおひ川) ※しおひ川のことを、馬場ではしえ川と呼ぶ。

 

 

W.当日の行動の記録

○バスを降りると少し雨が降っていた。まず、馬場の方へ行ってみると、電動草刈り機を使って水田(後に『前田』と判明)のわきを綺麗にしている中年のおじさんがいた。そこから10m程のところにある道路に、奥さんらしい女性がやってきたので、そのおばさんに調査の協力を、とお願いしたところ、そこから南側に見える家の主人である馬場昭夫さんという人にたずねるとよいと言われ、すぐに伺ってみた。

 

○昭夫さんは、ランニングシャツに短パンといういでたちで迎えて下さった。昭夫さんから教えていただいたことを順にまとめてみた。

 『深田』−ひざが泥にかくれるほど深い田。残念ながらこの辺りの田ではなかった。尚、この話題の時、11時になった。

 

 『前田』−村の中心あたりに広がる田のことで、他の村にも該当する田はあるとのことである。

 

 『モチダ』−『前田』の中の一部で、土をもってきて作った田だそうだ。また、もち米も作っているらしい。

 

 『開(ヒラキ)』−もっこで山を切り開いて作った水田、『前田』の一部。

 

 『古水田(フルミズダ)』−『前田』の中の2枚の水田。冬も赤茶けた水があり、つまり年中水があるのが所以らしい。

 

 『堂の隈(ドウノクマ)』−権現さんの祀ってあった御堂のまわりの田の意ではないかと思う。また、『堂の浦(ドウノウラ)』という水田のこともうかがった。

 

 

「水利」に関して

馬場地区は、全てといっていいほど大串川から引いた。水路でまかなわれており、その使用順は不文律とのことらしい。上流の「杉山」地区あたりから右岸と左岸に水路をつくり、ほぼ同量の水をひき入れている。また、大串川の水量は豊富で数年前の全国的な旱魃のときも、その影響をほとんど受けなかったそうだ。そして、栗並の方は栗並川を使っている所と大串川からもってきた水を使っている所とあるらしいが、ただし栗並川は水源となる山が小さいので、水量が不安定ではないか、とのことである。

 これらの話の後、昭夫さんが自分よりも詳しいと推薦された方で、馬場一郎さんという80歳になるおじいちゃんがおられるそうで、早速伺うことにした。

 

○一郎さん宅へ向かう途中、雨が降り出したので傘をさして訪問した。一郎さんは私たちの事情を察すると「地図をかしてみろ」とすぐに具体的に教え始めて下さった、溌剌としたおじいちゃんだった。昭夫さんのおっしゃったことと重なる点を除いてまとめてみた。

 

 まず、『堂の隈』に関して、現在住宅地を作っているところが『下(した)堂の隈』、そのさらに山側だと思うが、そこが『上堂の隈』。現在、道路が通っているところが『堂の浦』だそうだ。そして、今は切り取られた権現山の下に、区長が部落のものとした田が『権現田(ゴンゲンダ)』、『七郎さん田』というのもでてきたが、『権現田』との区別は不明。一郎さんの言葉から推測すると、馬場地区の権現山には「九郎さん」「七郎さん」「八十(ハチジュウ)さん」と言われるうちの「七郎さん」が祭られているのではないかと思う。あくまで推測である。ただ、昔は『権現田』というのは『権現さん』を祀るお宮のもつ水田だったらしい。また、以前まではその田でとれる3〜4俵とれる米で祭りをしていたらしく、現在は工事の為もあって米を作っていないとのことである。ただ、米3俵分程の金額を部落で出して、祭りはしているそうだ。

 他にも田の名称は伺ったが、宮の馬場に詳しい人がいらっしゃるかたずねたところ、その辺りはだいぶ人が出て行ったらしく、おられる方も高齢で、『もう、こんなことば話してきかせる人がおらんもんなぁ』と苦笑したようにおっしゃられました。

 

○一郎さん宅を出ると、雨もあがり、セミがしきりに鳴いてとても蒸し暑くなってきました。一郎さんがおっしゃるに、現在の田中酒店の主人の父親にあたる田中利克さんという人が、宮の馬場のことをよく知っているとのことで、うかがってみたが、今は不在とのことだった。このとき、店によっておられた男性は、栗並あたりの人だったように思われた。そして、田中酒店の田は『堂の隈』に含まれるとのことだった。宮の馬場は、大部分がダムに沈むらしく、よって現在は建設省に買い上げられて、もはや稲を作っていないらしい。思えば、今日通った道沿いに、古めかしい看板で、『ダム建設反対』と書かれたものがあったのを思い出した。とにかく、宮の馬場の他の田の俗称を知るには、もう少し栗並のほうへ行った方がよいと思い、とりあえず向かってみた。

 

○実は先程の酒店で会ったおじさんに、2人ともアイスバーをおごっていただき、機嫌よく栗並の方へ向かった。栗並川沿いの道を上流の方へ、つまり本村の方へ歩いていくと、2人の男性に会った。1人は草刈り機を動かして、忙しそうな様子だったが、もう1人の方が言われるに、藤田伝四郎さんがこのあたりでは詳しいとのことで、早速伺ってみた。伝四郎さん宅には、栗並担当の2人が前に訪問したらしく、伝四郎さんは事情をすぐに理解なさったようだ。言われたことを簡略化してのべると、『サヤノモト』とは工事用道路の入り口そば、道路あたりは『堂の隈』、権現山あたりの土を神水川沿いの住宅予定地に運んで、またその予定地に、沈む家々の人たちが移り住むということらしい。また権現山の多少南側が『ニシンタニ(西の谷)』だそうだ。『中尾』というのは『浦田』の一部らしい。『花の口』は『花の木』とも言うらしい。

 また、大串川の水路は関係者が多く、水路の掃除などは年最低2回、関係者一同で行うのだそうだ。あと、『ハチリュウ』、『ダイドウ』、『ヤマガミ』、『フナイシ』、『クロウ』といった地域名も教えていただいたが担当外だった。また、十数年前に富士町が国土調査を行って、その際、伝四郎さんが担当して七ヶ月間厳密な調査を続けたらしい。

 

○今までうかがった3人から得た田の俗称のうち、馬場の方にまだ空きがあったので、とりあえず馬場の方って戻ってみることにした。それから3人ほどにたずねてみたが、あまり分からないとのことだった。だが、神水川と大串川の合流点あたりまで戻ってきたときに会った1人のおばあさんにこのあたりの田の俗称のことをうかがうと、何か答えられたものの、自分たちが聞き取れなかったために、おばあさんが慌てられて、『向こうの畑におらっしゃる人にきいて』といわれたので、なすびに手を加えておられた夫婦らしき2人にうかがってみることにしたところ、それは馬場昭夫さんらであった。

 

○『イッテンシイチ』と聞き違いをした田の名は、実は『池の尻』という名だった。昭夫さんによると、「大昔は大串川によって、このあたりは淵のようになっていて、『池の尻』が後々まで水が残っていたのではないか。」とのことだった。それから、『六百田』、サヤの神様を祀ってあったという『サヤの祖(もと)』、『大辻山』、『川窪(コクボ)』、『ウソノ』等の名を思い出したように教えていただいた。他にも、『井手口』、『七郎河原』、『ナギオ』、『トコロのサコ』の名をあげていただいた。ちなみに『トコロのサコ』に関して、トコロとはヤマイモに似たつるのことで、サコとは山と山の間のことらしい。また、昭夫さんからは、馬場の家々について、各家20軒ほどに家号とも言える呼び名があるらしく、よって普通人の名を呼ばずに家の名で呼び合うそうだ。例えば、田中靖哉さん宅が『御平(オンダイラ)』、また、昭夫さん宅が『前田』といった具合らしい。(テープを参照)

 これらの方々には、おおらかさをもって接していただき、ご協力本当にありがとうございました。

 



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