【佐賀郡富士町鮎の瀬・熊の川地区】 歴史と異文化理解A 現地調査レポート
S1-18 1TE96548 小島岳 S1-17 1TE96674 山本英樹 行った先:富士町鮎の瀬、熊の川 大字:上熊の川
古老の名前と生年 鮎の瀬:山本朝子さん、昭和9年 熊の川:藤田利幸さん、昭和11年 江頭良一さん、昭和5年 江口勇次さん、大正15年
<鮎の瀬> しこ名の一覧 田:いでぐち、ひなた、こずわ、おしきの
最初に訪問した家の人から鮎の瀬で農業をしている家を聞いたので、まずは山本さん宅を訪問した。話をしてくださったのは山本朝子さんだった。その方の話によると、鮎の瀬に住んでいるけれども、田は近所にないらしい。 山本さん宅の田のしこ名はすべて教えてもらうことができた。それらの名は“おしきの”、“いでぐち”、“ひなた”、“こずわ”であった。“こずわ”は“いでぐち”の中にあり、“ひなた”は“いでぐち”の隣にあるそうだ。“おしきの”はそれらの田と導水管をはさんで反対側にあるらしい。 また、それらの田に引く水は、田の東側を流れている川から引いているとのことだった。その川は、鮎の瀬の隣にある永淵に通じている。 一昨年は他の地域とは違って、その川の水だけで田に引く水は十分で、不足することはなかったそうだ。農家が減り、田が減ったから、また、他の地域よりも雨が降ったから不足しなかったらしい。一昨年よりもむしろ今年のほうが水は少し不足しているということだった。 その後、別の家の人から鮎の瀬には今では農家は2軒しかないということを聞いたので、もう一軒の農家を訪問したが、古老が不在のため、話を聞くことができなかった。また、鮎の瀬にある田の持ち主は別の所に住んでいるらしい。
<熊の川> しこ名の一覧 田、ムラの中:園田(そのだ)、東(ひがし)、井手の口(いでのくち)、大神(おおがみ)、 苗代(なえしろ)、合の瀬(あいのせ)、山中(やまなか)、長野(ながの)、 墓の先(はかのさき)、会田(あいだ)、折立(おりたち)、 牛の子(うしのこ)、ながおさ、ゆのき
鮎の瀬を調査した後に熊の川に行った。熊の川に住んでいる人から、熊の川付近で農業をしている家を聞くことができたので、最初に藤田利幸さん宅を訪問した。藤田利幸さんの話によれば、熊の川にはまだ農家が多いらしい。また、自分の持っている田一つ一つに名を付けてはいないようだった。だから、田に使用している名はムラの中のしこ名を使っているということだった。その理由は、後で分かった。藤田さんから教えてもらったのは、“園田”、“東”、“井手の口”、“大神”というしこ名だった。しかし、藤田さんの田は、その近くにはないらしい。 米が良くとれる田は、平野や山の低い所にあり、あまり米がとれない田ほど山の高い所にあるらしい。また、田の形にも関係があり、田の形が悪いほど米がとれないということだった。そのため、最近は山にあり、形の悪い田は使わないそうだ。確かに、いくつかの使われていない田を見かけた。熊の川には上熊川川が流れており、その川の水で用水路がつくってあって、そこから田に水で用水路がつくってあった。そこから田に水を引くらしい。用水路は湯の原に通じている。一昨年は水は不足せず、今年は田植え前まで不足していたらしい。上熊川川の水は、九州電力の発電所か何かにも分けているということだったので、もし水が不足すれば、そちらには分けないらしい。 戦前に使用していた肥料は、草を刈り、刈った草を牧草のように積み、腐らせたものだったようだ。草は、ムラの草山があり、そこから刈っていたそうだ。刈らなかった草は、野焼をしていたらしい。その際、火が林までいかないように、林の近くの草を刈って、間隔を10mから15mあけたらしい、その後、チッソ、リン酸、カリなどの単品が出回り、それらの単品を混ぜて肥料にしていたようだが、今ではすでに混ぜてあるものを使っているということだった。藤田さんから江頭さんを紹介してもらったので、江頭さん宅を訪問した。江頭良一さんから話を聞いた。藤田さんと同様に、江頭さんも田の一つ一つに名を付けてはいないらしい。それは、持っている田が小さいので必要ないかららしい。田が小さいから、兼業農家らしいが、それは江頭さん宅に限ったことではなく、どこの家でも同じと言うことだった。専業でするには田が10丁は必要で、息子が農業をしていないので、近い将来百姓がやめるらしい。野菜を散布しなければならないため、大変だから栽培しないそうだ。息子に農業を継ぐように言うことはできないとのことだった。 江頭さん宅を訪問した後、江口さん宅を訪問した。話をしてくださったのは江口勇次さんだった。江口さんからはムラの中のしこ名を数多く教えてもらった。江口さん宅でも田の名は、ムラの中のしこ名を使っているらしい。自分の田一つ一つに名を付けなくてもよかった理由は、江口さんの田は一つ一つが小さく、離れた所にあったからということだった。これは江口さん宅に限ったことではないらしい。ほとんどの話の内容は、藤田さんの話と同じであったが、田に引く水については詳しく聞くことができた。それは、用水路の上流にある田に優先して水を引くこと、下流にある田は残りの水を引くこと、まばらに田があるので1人占めすることはなく、互いに助け合っていたこと、それでも昔は、田が今より多かったので、下流にある田を持っている人たちは水不足で水を取りあって喧嘩することもあったこと。上流にある田に優先して水を引くということは取り決めというより、慣習的なものであることなどであった。また、山のほうにあった田は米を作るのをやめ、植林をしたらしい。そのため水もちがよく、米を作りやすいところばかりを残したので、水は不足しないということだった。江口さん宅でも農業を継ぐ人がいないらしい。他の農家の人にも話を聞きたかったが、古老が不在などで聞くことができなかった。
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