【小城郡芦刈町永田地区】

SU-9 1TE95410 久保貴裕

LU-7 1LA95173 永江公人

 

<協力者>

森永灘雄さん(s5)

収集したしこ名

2のわ、3のわ、4のわ、5のわ、6のわ、7のわ、8のわ、9のわ、10のわ、新がた

 

話によると道の両側に堀が掘られており、地図に記したように2のわ、3のわと呼ばれていた。(1のわもあるはずだが記憶されていないようである。)そしてその周りにある田も同じ名で呼ばれていたそうである。(8のわ、9のわは道路の東側にあるものを指している。)

 また、堀で囲まれた地域の外の方は例えば弁財の東側を「6のわの東」などと呼んでいたらしい。

 村の範囲といえるものは、圃場整備の後で決められたらしく、ある道や水路をもって永田の境界とはされてなかったそうである。なぜなら、持ち田がすべて永田の側にあるわけではなく、住之江や道免の方に田を持っていた人もいるとのことである。但し、圃場整備のときに永田の周りに集めるようにはしたらしい。

 永田の田はすべて乾田であり、良田、悪田というものも特になかったようである。反収だいたい7-8俵はとれたそうである。現在は反収だいたい8-9俵ぐらい。肥料は石灰、窒素、硫安などを使っていたが、戦時中、肥料が手に入らなくなったときは、海に網を張り、とれたゴミを腐らせて肥料にしたそうである。

 水利について、昔は、嘉瀬川の水を三日月町の堀江のあたりからとって久保田町などと共にその水を使っていたということである。戦後灌漑工事が始まるまで、堀の水を水車や発動機で汲み上げていた。堀のゴミとりは年一回ぐらい行われていたとのことである。田ごとに堀の範囲が決められ、そこからとったものは(ゴミであれ魚であれ)すべて持ち主の物になったということである。

 当時は水利慣行といったものはなく、流れてきた分だけそのまま使っていたそうで、もし旱魃になったら、堀にたまっている水だけでしのいでいたそうである。今ではダムができたので、各町に決められた分だけ分配されている。94年のときは水がきちんと分けられるように余所の町の水路の番をしたそうである。

 川越の方は区長の方に手紙を出したが連絡がとれず、当日尋ねても不在だったため調査できなかった。



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