【小城郡芦刈町東道免、西道免、下古賀地区】 歴史と異文化理解Aレポート 1TE96602■ 笹尾政徳 1AG96617■ 高宮政樹 1TE96578■ 大田安孝 1TE96608■ 篠原謙治 調査日 7月11日(木) 尋ねた場所 東道免、西道免、新村 尋ねた区長 記載ナシ(入力者注) 調べたしこ名一覧 キタロウ マサオ カンチャンロバタ ドンチャンロバタ まんぷじま 一本杉 二本杉 三本杉 米出し道 たばた ヒノキゴモリ クロキゴモリ スギゴモリ ヤナギゴモリ マツゴモリ 調べた水路 ウシオスイドウ 最初この調査について聞いたとき、僕たちは面倒そうだと思っていた。しかし、当日は4人とも時間通りに集合し、佐賀へと向かった。初めは旅行気分であったのだが、電車の窓から福岡では見られない自然が目に入り始めた頃には、みんなが配布されたプリントを読みながら、今日の調査計画について話し始めた。 駅に着いて、まず僕たちはお寺を探すことにした。住職さんなら詳しいと思ったからだ。お寺の場所を聞くために駅前の商店で尋ねた。店のおばちゃんは親切で、店の人を集めて教えてくれた。40分ほど歩いてお寺に着いた。でも住職さんは若い人で、この村に来たのが2年前だったので何も知らないそうだった。 仕方ないのでその辺りの民家に入って区長さんの家を訪ねることにした。 区長さんに尋ねたのだが知らなかったので、近くに85歳のおじいさんがいらっしゃるというので、そちらを訪ねることにした。話を聞くと全部書き込んでいた地図を2年前に捨ててしまったということで分からなかった。僕たちはがっかりして2年前に来ればよかったと思った。後で気づいたのだが、そこは僕たちが調査する場所ではなかった。 そこでその区長さんに僕たちの調査する場所がどの辺りかを聞いてそちらに向かった。 僕たちが調べるところに行って区長さんの家を探した。 家はすぐ見つけることができたが、前もって連絡していないし昼間だということもあって誰もいなかった。仕方なく隣の家で聞こうと思い訪問したが、その家も留守だった。 この村に来て家に誰もいないのにドアに鍵もかけず窓も開けっ放しであるのを見て福岡とは違って平和な所だなと思った。仕方ないので近所でかたっぱしから聞いてみることにした。3軒目ぐらいで御年寄のいる家がみつかった。でもそこで聞いた話はショックだった。 そのおじいさんが言うにはしこ名を知っている人たちはほとんどここ5年間くらいで亡くなっていて、今ではほんの2,3人しか生きていないということであった。また知っている人でもはっきり覚えているのは自分が作っていた田んぼのしこ名だけであるということだった。さらに持って行った地図を見せると、書いている地名の場所が全然違っていた。教えてもらった通りに地名を書き直すと、それまで感じていた矛盾が解消され、ずっとわかりやすくなった。 そこのおばあさんはしこ名のことはあまり分からなかったけれど、東道免と昔流れていた水路について教えてくれた。この水路はこの地域で大きな役割を果たしていたそうだ。 まず、その水路はこの辺りの田んぼの水源、つまり水瓶の役割を担っていた。 次にこの付近は夏の暑さが厳しいらしく、日照り対策にも使われていた。僕たちは夏、晴れの日が続いていても、ただ暑いなあとしか思わないが、この付近の人々にとっては、それが生活を左右するものなのであった。僕たちはこの日の暑さで参っていたのに、この村で出会った御年寄の方は暑さを感じさせないくらい元気で、慣れているという感じを受けました。僕たち若い者がだらしないなあと思いました。 あとしこ名についての話ですが、僕たちは地図の田んぼの一つ一つに名前がついているのだろうと思っていたのですが、話を聞いたら4つか5つの田んぼまとめて一つの名前で呼んでいる方が多かったです。 またそのしこ名についてなぜか分からないけれど木の名前に関係したものが多かった。杉、松、檜など。 調べる過程において知っている人の中で今でも生きていて元気な人が少なかったことで、この調査の意味が少し理解できたような気がする。このまま調べずにいたら、10年後ぐらいには知っている人が本当に誰もいなくなってしまうような気がする。 今まで何気なく田んぼを見ていて名前がついているなんて考えたこともなかったけれど、こうして調べ終わってみると、自分の家の近くの田んぼにも名前はあったのだろうかなどとふと考えてみたりしました。本当に辺り一面田んぼでお店や公衆電話も少ない所でしたけれど、何だかのんびりとしていて気持ちよかったです。普段人混みにまみれ、交通量の多い福岡で暮らしているので、たまにはこういう長閑な所で息抜きするのもいいなあと思いました。 調べていく途中において、道や家を尋ねた際に相手をしてくれた人たちは、自分たちが他のことをしていてもそちらはほったらかしにしておいて僕たちのことを手伝ってくれたり、暑いからと家の中に入れてくれたり。とにかくみんな良い人ばかりだった。この人柄はやはり、この地方の長閑な雰囲気が作ったものではないかと思う。都会に住んでいる人はこういう所を「いなかだ」と半分バカにした様な言い方をする人もいるが、住む場所の価値は人口や車の量、建物の高さなんかではなくて、その場所のもっている雰囲気ではないかと思う。そして住みやすさから言えばいなかと呼ばれている所の方が上であると僕は思っている。だから未来の社会を築いていく存在である僕たちとしては、今回の調査において接した人々や土地の雰囲気は忘れてはならないものだし、これらの点がこの課題によって僕たちが得た最大の利益だと思う。 僕たちはあまり調べていなかったので、とてもたいへんなものだった。最初に佐賀県に着いて降りた駅では目的地までとても遠かったし、そこに着いてもそこからどちらへ向かえば目的地に着くかも分からなかった。ずっと人に聞きながら目的地に向かった。また、目的地に着いた後も最初にお寺に行って、しこ名に詳しい老人や区会長さんや生産組合長の家をたずねてそこへ向かったが、僕たちにとって大きな課題が二つありました。 その一つは地図が間違っていたことである。川から用水路に変わったのが十数年前であるが、それでは地区の名前が合わなかったので、訪ねて行っても「この地図では分からない」と多くの家で言われた。 二つ目の問題は、その名前を知っている老人がいなかったことである。区会長さんや生産組合長さんの家に行って、しこ名について詳しい人を教えてもらおうとすると、多くの老人がなくなっていて、また生きている人も留守の人が多くて、とても調べるのが大変だった。 小さな問題もたくさんあったが、その中でも言葉(方言)が分からなかったことが大きい。 道やしこ名を尋ねた人はとてもいい人ばかりだったので、丁寧に教えてくれようとしているけれども、言葉が分からなくて何度も聞き直したりして、とても大変なことが多かった。 最初の3時間ぐらいはこのお寺や区会長さん生産組合長さんに尋ねたり、しこ名について詳しい人を紹介してもらっていくという方法でやっていたけれど、全く分からなかったのでそれまで4人一緒に調べていたのを2人ずつに分けて、手当たり次第に聞き回ったが、それでも若い人や用水路ができた後に、そこに住むようになった人や、昔からそこに住んでいるが、僕たちの調べたい地区には田んぼを持っていなくて、別のところで農業をしている人などがいて、最初の1時間ぐらいは、この方法でも全く分からなかった。けれども、もうこの方法しか思い浮かばなかったので、この方法で根気強くがんばって農業をしている人などにも聞き始めると、一気に分かって、一つ目が分かってからは目標の個数を達成するまですぐに終わりました。 最初、僕たちの方法は無謀だとも思えたけれども、やってみるとできたのは、その土地の人がとても丁寧に教えてくれたからだと思う。 僕たちが調べた成果はしこ名について分かっただけでない気がする。 お寺の人やその土地のいろいろな人にしこ名だけではなく、その土地の昔の話や今のしこ名に詳しい人の家に案内してもらい、いっしょになって調べてくれたり、お茶を出してくれたりして、その土地の温かさにも触れた気がする。 その話の中でもやはり田舎なので若い人がどんどん離れていって若い人が少なくなっている話や、僕たちと同じ年の人が外国に一人で留学している話など聞いて、人ごとではない感じがした。 また今後、このような調査などがあったときは、この時の反省を生かして、最初にそこを詳しく調べていくべきだと思った。また、行く前に区会長さんや生産組合長さんと連絡をとって、調べたいものについて詳しい人とも連絡をとり、約束をしてきちんとした計画をたてて、留守中に訪れることがないようにして行くべきだと思う。 しかし、今回の調査では、しこ名の話ではない別の話の中にも僕たちが知っておかなければならない「しこ名」を調べることより大切なことが隠されているような気がする。 |