【小城郡芦刈町東中溝、町分地区】 歩き・み・ふれる歴史学レポート 1MD96084■ 松下知永 1MD96091■ 森 祟洋 [1日の行動記録] 11時半頃、芦刈町役場付近でバス下車。 ↓ 南里民男さん(町分生産組合長)を訪ねるが不在。 ↓ @南里勇さんを訪ねる。 ↓ 古賀春子さん(@南里勇さんの奥さんの紹介してくれた) を訪ねるが不在。 ↓ A松本克彦さんを訪ねる。 ↓ B通りがかりの農家の男性に話を聞く。 ↓ C南里助一さん(A松本克彦さんがこの付近では最年長の人だと教えてくれた) を訪ねる。 ↓ D通りがかりの農家の男性(野口祐一さん)に話を聞く。 ↓ E橋間定久さん(中溝の口調)を訪ねる。 ↓ F南里和幸さん(中溝の生産組合長)を訪ねる。 ↓ G南里さんの案内で近所の江副貴次郎さん夫婦を訪ねる。 ↓ 3時25分 調査終了 @からDが町分、EからGが中溝の調査。 [古老から教えて頂いたこと] @からGは前項と対応。 @南里勇さん 南里勇さんと南里さんのお父さんは仕事で不在。南里さんの奥さん(30歳前後)にしこ名のことを聞いたが、しこ名存在自体を知らなかった。また、町分は、まちぶんと読むのだと教えてくれた。 A松本克彦さん(60歳ぐらい) 小字の一本松、二本松のことを地元では、一の割(わり)、二の割と呼ぶと教えられたが、しこ名のことは全く知らなかった。 B通りがかりの農家の男性(60歳ぐらい) 昔、小路(こうじ)のあたりが畑だったと教えてくれた。しこ名のことは全く知らなかった。 C南里助一さん(明治45年生まれ) 戦後町分に住むようになったとのこと。しこ名のことは全く知らないとのことだった。 昔、芦溝は嘉瀬川の水を引き、三日月町を通ってくる東水(とうすい)と西水(にしすい)という用水路を使っていたという。今は昭和25年にできた西水東水幹線の水を使っているということだった。2年前の旱魃の時はそれほど困らなかったらしい。 D野口祐一さん 大正13年生まれ 一本松と二本松の間にあるクリークを一の割川といい、一の割川より東を中溝、西を町分というとのこと。昔は舟で一の割川を下って麥や米を下古賀まで運んだらしい。舟が通れなくなったので、一の割川に多くの橋がかかったということであった。一の割川は嘉瀬川や祇園川から水を引いており、大元は北山ダムであるとのこと。北山ダムの水を使う者はダムに金を納めないといけないと言っていた。 盆明けによく田が干上がるらしく、そういう時には時間給水を行うという。自分の村が水を取る時間に、上流の他の村が水をとらないように水番に行くという。それでも水が不足している上流の田に水を引く人がいるらしく、今でも水争いがあるという。今では町が解決に乗り出すそうだ。 2年前の旱魃の時、北山ダムの水が空になり水に困ったそうだが、どうやってそれを乗り切ったかは聞き出せなかった。北山ダムが完成する昭和32年までは毎々旱魃があり、米のとれないところもあったという。 しこ名のことは知らなかった。 E橋間定久さん(65歳ぐらい) 『「芦刈」その起源・人 ふるさとの地名をたずねて』という、役場に勤める岡本純雄さん(芦刈町東戸崎)が自費出版した本を見せてもらった。芦刈の中溝、町分以外のしこ名らしきものは載っていたが、中溝、町分のしこ名は載っていなかった。 F南里和幸さん(昭和15年生まれ) G江副貴次郎さん(大正5年生まれ) 江副綾子さん(大正14年生まれ) 三人でしこ名を思い出してもらった。しこ名の他にもDの野口さんが言っていた一の割川がCの南里さんの言っていた東水(とうすい)であることや、地図のクリークの形から西水(にしすい)がどこを走っていたか教えてくれた。 また室町時代までは今の穀堂207号線が海岸線であったことや、中溝に海の安全の神を祀ったという金比羅塚なるものとがあったこと、昔、難破船があったといわれる場所があったことを教えてくれた。 しこ名一覧 芦刈町中溝 田畑 小字一本松のうちに ナガオサ(長?) 小字一本松籠のうちに ヤクシダ、キタゲ、マサオ、カモチダ(鴨打田) 小字二本松籠のうちに ケーワラ、ゲンシャウラ 小字三本松籠のうちに ヨシンナカ(芦中)、リンコーワン(?光湾) *以上アクセントは最初の文字 水利 CDFGをまとめると下図のようになる
西水とは西芦刈水道のこと。川上川の水を引いたもの。浜枝川まで続いていた。 東水とは東芦刈水道のこと。 |