【小城郡芦刈町道免、新村地区】 歩き・み・ふれる歴史学レポート 1AG96133■ 月形恵子 1AG96102■ 渋田京子 お話を伺った方々(敬称略) ・吉原民男 大正9年生まれ ・古賀則康 大正14年生まれ ・北島政次 昭和5年生まれ ・北島義治 昭和6年生まれ ・本村朴 昭和7年生まれ ・古賀豊景 昭和8年生まれ ・古賀弘 昭和10年生まれ ・古賀武義 昭和10年生まれ 村の名前 道免、新村 しこ名一覧 イボイケガラ ウランクチ ウンコロズ オオマガリ カイ キタノカンコロズ キタノニシスンズ ゴケンエン コメダッシドウ ゴンサクボイ ツッキーガラ デイバタ テンジョウバシ ドウシュウ ナカミチ ニシミチ ネコボリ ヒガシミチ ヒョウタンボイ マッタガラ マンサクボイ ミナミノカンコロズ ミナミノニスンズ 【田畑のしこ名】 小字柳篭のうちに オオマガリ、カイ、ネコボイ 小字楠篭のうちに ウランクチ、ナカミチ、ニシミチ、ヒガシミチ 小字四本杉のうちに コメダッシドウ、ネントクボイ、マンサクボイ 小字一本楠のうちに エゴノイ、ゴンサクボイ 小字二本楠のうちに キタノニシスンズ、ミナミノニスンズ 小字三本楠のうちに キタノカンコロズ、ゴケンエン 小字四本楠のうちに デイバタ、テンジョウバシ、ドウシュウ、ヒョウタンボイ、ミナミノカンコロズ 小字四本楠のうちに ウンコロズ 小字築切搦のうちに ツッキーガラ 小字族搦のうちに マッタガラ 小字牟田搦のうちに イボイケガラ 1日の行動記録 バスを降りて私たちは途方に暮れた。周りは田んぼだらけ。通っているのは忙しそうな佐賀ナンバーの車だけで、人の姿も見えない。地図を広げて見るが、正確な位置はつかめずどこに自分たちが置かれているのかさえも分からない。調査する場所で一番目印になるのは天満宮だったので、まずそこを見つけることにした。 近くに定食屋を発見。中に入って天満宮の位置を聞くと、結構近かった。現在所在地も地図を見ながら教えてくれた。とりあえず誰かにこの村の昔のことを詳しく知っている人を尋ねようと南へ歩き出す。植木屋さんが忙しそうに働いていた。その先にはおじさんとおばさんが仕事をしていた。皆声をかけられない雰囲気だったので、さらに先に進むが全く人影がなかったので折り返すことにした。 途中車通りから細い道に入り歩いていくと、車に荷物を積み終えたおじさんが二人いた。その人たちにまず聞いてみると「車のすぐ裏の広場におじいさんとおばあさんが集まっているから聞いてみなさい。」と教えてくれた。 広場にはゲートボール場とグランドゴルフ場があり、その境にいこいの場としての小屋があり、皆そこでくつろいでいた。おじいさんはストーブを囲んで鍋で酒を沸かし飲んでいて、おばあさんは外のベンチで持ち寄ったお弁当を食べていた。皆とても親切で私たちを快く迎え入れてくれた。 おじいさん方が席をつめてくれ、ストーブを囲んで対話形式で昔のことを伺った。初めのうちは結構忘れていたが、おじいさん方10名の知恵を絞って考えてくれたおかげでどんどん思い出していき、昔の仕事なども話してくれた。 この広場はウランクチであったらしい。川も流れていて舟が通っていたのに今ではすっかり埋め立てられて変わってしまったとも言っていた。昔の話をしているおじいさんたちは表情も生き生きとして楽しそうだった。実際に「こんな話をするのは久し振りだ。」と笑っていた。 話の途中有明海で2,3日前にとれたばかりの海苔を頂いた。とてもおいしかった。 また、こんなに人が集まっていたのはグランドゴルフの練習のためで普段はいないし、今日がたまたま人数がそろっていただけだったらしい。 質問の最中にも「こんな事聞かれても一人だったら言えないし、教えていなかっただろう。」と言っていたので、私たちはこの偶然にとても感謝した。 おじいさんたちのチーム名は「かちガラス」といって、小屋にたくさんの賞状が飾ってあったのできっと強いのだろう。道免の人も新村の人もその中にいたので一遍に調査ができてしまい、皆さんも次々と戻っていったのでお礼を言って別れた。 別れ際にあるおじいさんが「午後からはもう一世代上の人がゲートボールをしに来るからまた聞けばいいよ。」と親切に言ってくれた。 私たちはその広場で昼食をとり、しばらく待ってみたが来る気配がなかったので、ゲートボールの終わりの頃にまた伺ってみようと思い広場を後にした。 最初にみた天満宮が気になっていたので今度はそこへ向かった。着いてみると、小さな天満宮でベンチが一つと、ブランコとジャングルジムがあった。私たちがベンチに座り休憩していると、おばさんが一人手に薬罐とコップとかをもって天満宮に入って来た。あいさつをするとにこやかに答えてくれた。しばらくすると、また一人と皆なにやら集まってくるので「ここで何か行われるのですか?」と聞くと、その日がちょうど中村町の祭りの日だったそうだ。この天満宮をはさんで道免と中村が区切られる事が分かった。こういう天満宮は部落ごとに一つあるらしい。祭りは年に2回(夏は祇園、冬は祭りと呼ばれる)部落ごと日にちを変えて行われるようだ。 中村の人も親切で「わざわざ福岡からいらしたんだから、この祭りに参加していきなさい。」と言ってくれた。しかし、まだ調査が終わっていない旨を伝えると、その中の一人が「確か何年か前も息子の友人が調査に来たよ。大変らしいね。がんばってね。」と声をかけてくれた。 中村のしこ名も一応聞いてみたが、皆字しか知らなくて区役所で聞いた方がいいと言われた。天満宮を出て再びゲートボール場へ行ってみると、何人かが集まっていたので早速聞いてみたが、午前中に聞いた以外はもう記憶がないと言われた。そこで調査を終えることにした。 この現地調査でいかに佐賀の人が親切でこの土地を大切にしているかが分かった。私たちが分かるように訛りが出ると誰かがきちんと説明してくれ、私たちの話も熱心に聞いてくれたことがとてもうれしかった。また私たちがよそ者というのがすぐ分かるのか、車通に出るとすれ違う車は皆私たちをじろりと見るか、不可解な顔をしていたのでとてもおかしかった。今日調査したしこ名は親切に、懐かしそうに教えてくれた方のためにもぜひ残していって欲しい。 調査結果 田畑は川や堀によって仕切られており、しこ名もその川や堀に由来した名前がついていた。これは田畑と深い関係を示していると言えるだろう。しこ名は音のみで伝わっているものなので、「オオマガリ」を例にとってみると、川が大きく曲がる「大曲」と書く人もいれば、「馬にまたがる」という語が次第にくずれていったものだという人もいるように、尋ねる人によって、その人なりの解釈があったようだ。 この地域では5月の4,5,6日頃、嘉瀬川につながる祇園川の島溝から一斉に田に水を引いていたが、水不足の歳は、久保多町にお金をわたし、嘉瀬川から水をひかせてもらいしのいでいた。 またミズクンマ(水車)を3台に増やして水を上に引き上げた。ミズクンマは水車と書くが、水の力で回転するスイシャと違って、水を引き上げるために人間の力で動かすものである。 道免のニシミチ、ナカミチ、ヒガシミチの川には舟が通っており、稲のワラや機械を運んでいた。この川舟はこの地域だけにしかなく、普通他の所で道具を運ぶのに使われている「車りき」という鉄の輪の5倍の量が積める大木な舟だったようだ。 |