平野 憲芳

 

芦刈町西戸崎、六丁

 森 輝彦   S10  1/1     その他二、三名

 

しこ名の一覧

 又八搦、 孫右ェ門搦、外役者搦、役者搦、孫兵ェ搦、竜王搦、金左ェ門搦、

 西口江、屋敷搦、川越搦、弁賊搦、二本松篭、五丁篭、新搦、北沖神搦

 南沖神搦、太八搦

 

 

当日の行動

 まず、知人をたよって芦刈町公民館へ行った。そこでは情報が得られず、知人に紹介されて役場の方へ行き、田んぼのしこ名、水利などをいろいろと聞いて、資料をもらった。役場で聞いたしこ名の地図が不安だったので西戸崎の方へ古老をたずねてまわったが、誰もいなかった。ゲートボール場の近くの農家を訪ねて、しこ名の確認をしてもらい、くわしく話を聞こうとしたが、役場で聞いた以上の情報はえられなかった。話を聞くと、昔のことに詳しい古老は隣町の江北町にゲートボールの試合に行って、みんな出払っているとのことで、その日はタイミングが悪かった。西戸崎をまわるのに手一杯で六丁まではいけなかった。

 

 

 

水利慣行

 芦刈町は主に地図@のA地点(嘉瀬川)からの水を中溝のB地点から北芦刈水道、南芦刈水道に分かれて各田んぼに水を引いている。六丁などの西の村では牛津川から水をとった方が地図をみるだけではよさそうだが、六丁付近の土地は永田、道免付近の土地よりも低いので、南芦刈水道から水をとっている。

 芦刈町は有明海に面しており、潮水が田に入ると田は被害をうけるので、招き扉を河口につけて潮水の逆流を防いでいる。また、水を巡っての争いは、誰かが強引に水を独り占めしようものならば村八分にされる恐れがあるのでそのようなことはなかったそうである。川には井樋がもうけられ、田の水量を調節していた。

 中溝から取り入れている水は農業用だけでなく、飲料水にも使われていた。

壺にわら、木炭を下から敷き詰めて川の水をこしていた。昔は水がタダだったので、水道料金の徴収が始まると村全員で猛反対したそうである。

 

 

旱魃について

 芦刈町は現在、北山ダムからの水にたよっておりそのダムも当時かなりの水が減っていた。そこで芦刈町とその周辺の町村(江北、牛津、三日月など)の五つの町で五日サイクルの時間給水を行った。各町には田の面積に応じて水が配分された。

 30年前に仮におととしの旱魃がおこっていたら、対策法はなかったそうである。30年前は町のあちこちにため池(この名前お聞きたかったが、情報は得られなかった。)があって、それでいくらかしのげたそうである。他に、地図@のA地点に少し土嚢を積み、有明海へ流れる水の量を抑えて芦刈町へおくっていた。A地点を全部せきとめてしまうと下流の村や漁村に迷惑がかかるため、その辺の気遣いが大変だったそうである。

 

 

その他

 芦刈町は土手沿いの田以外はほとんど良田で5,6俵はとれていた。

 肥料は牛ではなくて馬糞や有明海で取れる鰯を使っていた。昔は有明海で大量の鰯がとれていた。西戸崎などは川が近く、漁業(のりなど)と兼業して農業を営んでいる家が多い。

 

 

こちらの聞き方がまずかったこともあって、あまり情報は得られなかった。その日がゲートボールの試合とは知らず、アポの重要性を実感した。

 



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