【佐賀郡大和町下村、久留間地区】

歴史と異文化理解A現地調査レポート

1TE96855 伊藤大樹

1TE96887 城 隆久

 

佐賀――下村、久留間の実地調査

目的

 今回調査した水田の「しこ名」は、旧水田の呼び名で、正式なものではない。しかし、旧水田の形は牛馬耕に適応して形成されたもので、ほぼ牛馬耕の歴史に等しい。つまり、旧水田は平安時代から近代までの、およそ1000年ほどの歴史を有するものだったと考えられる。そして、こうした長い歴史をもつ旧水田にはさまざまな地名が付されていたし、複雑な水利慣行が形成され、いずれも歴史資料としては非常に重要である。

しかし、調査や記録されたりすることはほとんどなく、このままでは時間の経過につれ、完全に忘却されてしまうものである。そこで、今回の調査の第一の目的として、この「旧水田のしこ名」というものを調査し、重要な歴史資料を少しでも多く自分たちが記録したいと思う。

 

実際に調査して

 今回の調査では、「下村」、「久留間」の人々の協力をうまく仰ぐことが出来なかった。まず、滅多に外に出ている人がいなくて、たまに仕事をしている人や自転車やバイク車に乗って、道を通っている人や、おじいさんおおばあさん等に声をかけても、気づいてもらえなかったり、または「今忙しい」とか、「分からん」と言われたりした。

 最初僕たち二人は、「下村」の方に行ったのだが、だれも相手にしてくれず、非常につらく、悔しい思いをした。

しかし、僕たち二人は気を取り直して、フロンティアスピリッツをもって道行く人々や家々を訪ね回った。その結果、「久留間」では午前中唯一人、本当に唯一人だけ、草刈りをしていたおじさんが相手をしてくれた。しかし、この人は昔から全く水田をいじっていないらしく、馬の世話ばかり一生懸命していたので分からない、とのことだった。少し残念。その人が、親友で昔から今でも水田いじりをしていて、そういう事にはこの辺りでは一番詳しいのではないかという「吉富健一」さんという人の名前と、家までとても丁寧に教えてくれたので、とても嬉しかった。

この調査に来て、苦労して得た初めての情報だったから、とても元気にうれしそうに「吉富健一」さん宅を訪ねた。しかし、今回は残念ながら不在。家には誰もいなくて、何一つ聞くことが出来ず、悔しい結果となってしまった。非常に残念。さらにそのご近所の人々までさっぱりいなかった。何故だろうか? 近くで祭りでもあっているのだろうか? とにかく711日にはもう来ない方がいいだろう。そこで仕方なく、僕たち二人は酒屋のおじさんなら何か知っているかもしれないという理由で、近くの藤木商店という酒屋に行った。

すると見事予感的中。そこのご主人のお父さんであるという藤木定一さん(大正5年生まれ)は、昔、農業をしていたらしくて、少しの期間だけなら近所の手伝い程度に、水田をいじった経験もあるそうで、その人から話を聞いた。残念ながら今では酒屋のご隠居様で水田はいじっていないから細かい所までは忘れてしまって分からないらしいが、貴重な記録をとることができたので嬉しかった。この時の時刻は、もう既にP.M.4:30ごろ。

そろそろもう帰ろうかとしていたところ、帰り道なので、急遽もう一度下村の調査に行った。そこで以前に久留間で会った草刈りをしていたおじいさんの話を思い出しながら、下村の古老を訪ねて話を聞こうとうろうろしていたところ、夏バテか何かで伏せっていて、話は聞けないだろうという情報を入手したので、今回は断念し、僕たちの調査は実際のところ、この時点で終了した。結果は今から記そうと思う。

 

結果

まず地図を参照して欲しい(地図省略、佐賀県立図書館所蔵)

・平耕

 この平耕と呼ばれていた土地は、久留間のあたりでは最も良い土地らしく、土地がまっすぐで、昔から非常に水田に適していたらしい。土地が平らだったことからこの名が付けられたらしい。

・おおきんどうばた

 地図にも書いたが、この道路をおおきんどう(漢字はよく分からない)と呼ぶらしく、その近くの畑、水田をすべて総称しておおきんどうばたと呼んでいたらしい。

・下田

 おおきんどうから地図的には下になる土地はすべて下田と呼ばれていた。何故下田と呼ばれていたかというと、この辺りは昔非常に水利が悪かった。なぜなら日照り続きの日などはこの上の水田から水を入れていくので、いつもこの辺りの水田は干涸らびていたらしい。さらに洪水とかになるといつも水浸しになっていたそうだ。

・かのう

 これも漢字はさっぱり分からない。とにかくこの三角州は洪水が多く、砂地も多く水田には不適らしい。しかし、おじいさんは最高ではないが水田に適していたと言っていた。どっちが正しいのだろうか? また、何故「かのう」と呼ばれていたかということについては、有力な情報を得ることができなかった。

・その他

 おおきんどうばたの上の水田には一本松、二本松……というように呼び名が全て付いているらしいが、詳しいことは分からなかった。また、その他の水田にはとくに呼び名が(しこ名)は付いていなかったらしく、すべての旧水田にしこ名が着いていたのではなかったようだ。これには驚きである。僕はてっきりすべての旧水田にしこ名が付いているものだと思っていた。

 

感想

 まずA.M.8:00に博多駅を出発し、P.M.5:00まで時間がかかった調査の結果が終わってみて考えてみると悲しいものと同時に悔しいものがある。僕たちが要領が悪かったということもあるかもしれないが、せっかく意気込んでA.M.8:00に博多駅を出発したのに、下村や久留間の人々はあまり相手にしてくれず、悔しかった。友人佐藤大樹がなだめてくれ、そしてこの旅をおもしろいものにしてくれたことに深く感謝している。

今思えばどんなに辛い出来事や苦しい、そして悔しい出来事でも、終わってみると、とてもおもしろい、一度の思い出となった。僕はまず滅多に23人という少人数では旅に出たりするような事はなく、旅自体は全くでないが、いつも大人数、最低でも7人以上での旅しかしたことがなかったので、調査という目的ではあったが、自由気ままに行動をとることができ、非常におもしろかった。また、まだ知り合ったばかりで、どんなやつかよく分からない友人の佐藤大樹の意外な一面や、頼ることのできる頼もしさ等を発見かることができ、とてもよい旅になったと思う。

 調査という目的においては、この旅は必ずしも大成功とはいえないかもしれないが、友達との友情の絆を深める上ためでもあるという目的を新たに付け加えると、これ以上ない最高に楽しい、そして非常に有意義な旅となり、大成功であったように感じた。

 来年、再来年とずっとこういう講義が一つぐらいはあってもいいのではないだろうか? 大学生活をより良く、楽しく、そして有意義にすることができるのではないかと思う。僕はこの講義は最後にこんな貴重な体験ができて、大変よかったと心から思う。来年からの一年生たちにも、体験させてあげるべきだ。S1114 1TE96887S 城隆久

 

 まず、最初に記したとおり、「ほぼ゛牛馬耕の歴史に等しい、平安時代から近代までのおよそ1000年の長い歴史をもつ旧水田の「『しこ名』の調査」というのが今回の調査の第一の目的だったが、僕たち、佐藤、城の力たらずのおかげであまり多くの資料を得ることができず、申し訳なく思う。

 とりあえず、これだけの資料から考察するが、僕は最初は、「旧水田のしこ名」なるものを調べることにどれだけの意味があるのだろうか

と強く疑問に感じていた。しかし、調査をやり終えてみると、何故そのような名が付いたのか? とか、その歴史的背景というものが重要なことからそうでもない他愛もないことまで全て理由があるということには驚かされた。こんな事には全く興味がなかった僕たちだったが、(城はどうだかしらないが、とにかく僕には全くといいほど興味がなかった。)少し興味をもって楽しく調査することができたのも、城のおかげであると思う。また、楽しく勉強しながら調査することができ、実におもしろかった。またこのような事をやってもよいな、と思う今日この頃である。S1114 1TE96885W 佐藤大樹

 

 



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