【佐賀郡大和町大久保、楢田地区】

歴史と異文化理解A現地調査レポート

1EC95238 末吉圭吾

1EC95239 杉本健二

大久保

1月20日。僕らはまず昨年手紙を出した堤さん宅を訪れた。この手紙を出した堤さんのお宅からは断りの電話もなくハガキも来なかったため、当日の手紙に書いておいた時間通りに行くことにした。それが失敗でした。というのはその家に行くと、おそらく息子さんと思われる方が出てきて「しこ名」のことは、やはり年配の方でしか分からないらしく、「オレは勤め人だし、そんな名前知っているのは年配者しかおらんねえ」みたいなことを言われた。それで僕らがどうしようかと困っているときにおばあさんが家から出てこられたので、「よかった。この人だったら分かるかもしれない」と思い期待していたが、断られてしまった、。

 どうしてもと言ってお願いしたら、親類らしき人へ電話してくれて、おじいさんは田ん中へ出ているということで、その場所まで連れて行って下さった。そこでやっとのことで「しこ名」のことを知っている老人と出会えた。そのおじいさんは僕らが「質問したいことがあるのだけれども」と言うと快く引き受けて下さった。

 そこで、まずしこ名のことを聞いたら、地図に思い出しながら、思い出しながら書き込んで下さった。それが終わり残りの質問をしていった。

 まず、この大久保周辺では良い田、悪い田というのはないらしく、今はもちろん肥料やなんかで同じようにとれるが、昔もそんなにとれる米の量は変わらなかったらしい。およそ1反につき、8俵ぐらい取れたそうである。

 また、1994年の干ばつの時はどういう対策を取りましたか、という質問には、この辺はほとんどといってよいほど、その影響はなかったと言っていた。というのもこの辺りではあちこちに池が存在していて、それが大久保に大きな影響を与えているということである。また、この時少し興味をそそられる話をきいた。それは1994年は干ばつでとれなくなるどころか、他の年より少し多くとれたぐらいだったという。

 その方曰く。いつもどっぷりの水に浸からせているよりも、この年ぐらいの水の量の方がちょうどいいのではないかと考えているという。

 その後、戦前の肥料のことについて尋ねてみた。これは予想通り堆肥が主流であったということである。また、戦中戦後直後は化学肥料の配給があったらしい。

 この辺で質問は終わりにした。とうのもおじいさんも田ん中での仕事中であったし、外で質問していたため、あまり落ち着いては話ができなかった。もう少しいろんな事を聞きたかったが、しようがない。方言が聞きづらい所もあったが、貴重なお話を聞けて、この佐賀へきたことはとても自分らにとってよかったと思う。

 

お話を伺った方

 堤安猪喜さん 昭和7年生まれ

 

楢田

 楢田の伊東さんを訪ねたが生憎留守だったので、近くにいたお婆さんに、この付近に昔からの地名を知っているような年配の方はいないか尋ねたところ、仁川栄さんを紹介してもらうことになった。

 はじめに自分たちの目的を話し、仁川さんに理解してもらった。仁川栄さんは快く私たちを受け入れてくれた。

 まず地図にあるしこ名や水路などを尋ねた。次に水対策について尋ねた。普段は3基のポンプを3人の管理人が管理して部落内に水を分配しているそうだ。一昨年の水不足の時には、管理人を1人に絞り、部落内の水を管理したそうだ。3日に1度ぐらいしか田に水を張ることができず、悪いときには5日に1度ぐらいしか水を入れることができなかったそうだ。

 30年前、同じような干ばつが起きたらどうなっていたかを尋ねたところ、恐らく水の取り合いでケンカが起きただろうということだった。(一昨年も実際に起こった。) 水は一晩中水車を踏み続けただろうということ。

 村には昔から御宮を管理するための共同田があり、祭りを通して村や部落の連帯感を強めたそうだ。

 次に水田の質について尋ねた。昔は貝元、利子久あたりは土質がよく、八ノ坪、於敷町あたりはよくなかったそうだ。土質がよかった地帯はじょうしゅう水がいと呼ばれる水害が起き、そうしたら水がい地が土質がよかったそうだ。しかし、現在は肥料などが発達しているので、ほとんど格差はないそうだ。戦中は金肥は少なく、硫安と呼ばれる(チッ素)ものや、農耕馬などの糞、麦や大豆をまき、レンゲソウなどの花を花の咲く前にすき殺す(緑肥)などを作っていたそうだ。硫安は3反に1俵ぐらいの配給だったそうだ。

 

話を伺った方

 仁川栄さん 昭和6年生まれ

 

次に仁川さんに紹介してもらい、御厨さんの家を訪ねた。仁川さんと同じ質問をした。大部分同じ質問をした。大部分同じような話であった。異なった点を書くと、昔は良い田は1反に67俵とれ、悪い田はよくて5俵だったそうだ。昔、麦は3俵ぐらいだったが、肥料の発達によりその倍以上とれるそうだ。

 一昨年の水不足の時は意外にも米がとれたそうだ。御厨さんの話では水は水不足の時ぐらいの水の方が鍛えられていいということであった。昭和20年の大水害では家の鴨居まで水がきて、24年のときは腰ぐらいまで水があふれたそうだ。このときは全く米がとれず、出稼ぎに行ったらしい。

 現在は土日だけ農業をし、後は別の仕事をする兼業農家が多いそうだ。機械は共同で購入し、ライスセンターで米を乾燥させるそうだ。乾燥調整や肥料代が高いので、10丁ぐらいないと専業農家は成り立たないそうだ。この地域は水害になりやすいので、ハウス栽培がでないそうで、この地域での専業農家は難しく、現在は一軒だけだそうだ。

 仁川さんも御厨さんも、このような勉強は大切で文化的にも重要な資料になるので、これから勉強を続けて下さいということでした。

 

話を伺った方

 御厨正信さん 大正14年生まれ

 



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