【佐賀郡大和町今村地区】

歴史と異文化理解A現地調査レポート

1EC95145 藤丸慎司

1EC95130 原 敬之

 

私が調査のため現地(佐賀郡大和町今山)を訪れたのは、113日の午前中であった。予め調査協力を依頼していた訪問先のお宅を目指し、閑散とした風景の中を歩き続けた。懇切丁寧に訪問先のお宅までの道程を示してくれる村人のおかげもあって、約束の時間に到着したのだが、当の古老が在宅していない。それどころか玄関の鍵が開けられているにも関わらず、ご家族の誰もが不在なのである。1時間ほど待ち続けたのだが帰宅されないため、仕方なく5,6軒ほどの家をまわり、別の古老を訪ねてみた。ところがどこのお宅も「昼間は不在」とのこと。

現在の区長さんのお宅にも伺ったのだが、なにぶんまだ若いそうで、しこ名についてはご存じなかった。途方に暮れているところにようやく訪問先予定のご家族の一人が帰ってこられた。ワラをもつかむ思いで話を聞いたのである。その女性は大正10年生まれの御年74歳。必死にお願いして昔の記憶をたどってもらった。

まず、しこ名についてだが、このおばあさんから聞き出せたのは二つ。というのも今山地区についてはしこ名そのものが普遍的ではないらしくはご存じなかった「生まれも育ちも今山」と語る彼女であっても、しこ名やあだな、ほのぎという言葉には戸惑っていた。

聞き出すことの出来たしこ名は、「しえがわ」と「はちまんばる」。地図上に記した通り、今山地区の東の外れに位置する。(地図省略、佐賀県立図書館所蔵)。しかし、これらのしこ名ですら現在では全くといっていいほど使われていないらしい。

また、水利に関してであるが、この地区一帯にはダムがなく、溜池や堤の水に頼っているとの話だった。

各水田に高低差がある今山では、普段より池や堤に近い田んぼから水の出し入れを行い、、この慣行は旱魃の年も変わらないのだそうだ。即ち、所有する水田の位置によって致命的ともいえる有利不利の差が生じるのである。

2年前の大干魃のときには大変だったらしく、勝手に自己の所有する水田へ水を引く、いわゆる「水泥棒」を防ごうと、区長を責任者とする各人が溜池や堤の近辺で寝ずの番をしたとのこと。それでも水は完全に涸れ、例年でも一反当たり平均8俵と決して多くはない、この地区の収穫量は激減したという。そのため国や県からの補助金を利用して溜池や堤が大規模かつ整備されたものになった。

更に老女の話では10年前にも旱魃があり、その際は水田近くに新たな井戸が多数掘られたらしい。私が「もし、そういった大干魃が30年前の出来事だったならばどうなっていたと思われますか?」と尋ねると、老女は「あってはならんことじゃが」と前置きした上で、「村人同士のいがみ合いが絶えんことじゃったろうな」と語ってくれた。

話は前後するが、田んぼへの用水は「西観池」や「新堤」、そして地図上には載っていなかった「西田堤」から引いてくるらしい。

続いて、村共有のいわゆる入会山について尋ねてみた。話によると今山地区の北西に位置する通称「学校山」がそれらしく、一応責任者は存在するのだが、各人がこかんなどを自由に栽培しているとのことだった。収穫された蜜柑はその一部が山の管理責任者に渡されるほか、麓付近に位置する男女神社へ奉納されるらしい。農作物の豊作を神に感謝するという昔ながらの人間の姿がそこに垣間見えるようで、何だか嬉しかった。

今回レポート作成にあたり調査対象地へ実際赴くという、私にとって初めての試みがなされたのだったが、大変有意義なものとなった。現地の村人たちの親切心に触れることができた外、都市育ちの私にとって興味深い話が数多く聞けた。予め手紙で調査依頼をしていた古老に会えなかったのは残念であったが、そのことを補って余りあるような話が聞けたと思う。大学における学習に相応しいこういったレポートの作成を望みたい。

 



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