【佐賀郡大和町池上地区】

歴史と異文化理解現地調査レポート

1EC95255 出山剛史

1EC95259 中村恭世

 

 私たちは大和町池上での調査を行った。調査に協力して下さったのは、次の六名の方で、公民館に集まって下さった。

 江頭幸利さん 昭和6(65)

  堤 栄 さん 大正15(70)

 池田義明さん 昭和19(52)

 永渕武雄さん 昭和5(66)

 木原 昭さん 昭和9(61)

 中村行男さん 昭和11(59)

 

 集まったしこ名はプリントにあった外、「がらん」「下牟田」「のぞえ」「為重」「八代」の5つで、その他は思い当たらないと言われた。場所は「池田」以外は全て確認できた。6人の人たちがみんな結構覚えてあって、これはここ、これはここと、次々に場所を教えてくれたので、確かだと思う。かい田は皆「きゃーだ」と呼んでいた。

 村の範囲は地図の緑で示した部分である(地図は佐賀県立図書館所蔵)。嘉瀬川が境となっている。村の共有の山林はないが、田なら、昔、町有田というのが6反くらいあったそうである。その目的は観音様や英彦山の祭りである。また、地図上の斜線部分は久留間や於保との共有で、寄合耕作所となっていたそうだ。また、牟田水路も境とされた。

 水田にかかる水は、嘉瀬川の水の利用が主である。溜池はなく、北山ダムから嘉瀬川へ流れる水を頭首口で分水して使用している。1994年の水対策には井戸が使われていた。2箇所掘ったそうである。

 また川をさらし、わき出る水(出水)をポンプで汲み出し、水路に流す方法もとった。時間給水もあり、2時から6時までなど決まった時間にどんどん使ったそうだ。収穫は例年より多く豊作といったよいほどであったが、部分的に水がいかないところも多少あった。

 この村で特によく米がとれたのは、「のぞえ」と「南小路」で、格別収穫が多かった。両方とも湿田で、10a当たり9俵くらいとれていた。逆にとれなかったのは「くぼ」で、「全くだめ」だとおっしゃっていた。

 戦前の肥料には、大豆カスや唐津からのイワシ(粉にした)、また、虫、馬糞などを配合したものが使われたが、各家庭で配合が違うので、とれ方も大きく異なり、個人差が出たそうだ。今はもっぱら既製品の肥料を使うそうである。

 水争いは昔から絶えず、池上は「佐保」や「楢田」とよく争った。分水堰で、広さ(その村の)に応じた割合に調整すると決めたにもかかわらず、その割合が納得いかないものであると、鍬や鎌を持ち出してケンカになったそうだ。それは今にも続いていることであり、ちょこちょこ様子を見に行かなければ勝手に水の割合を増やされることがしばしばだそうだ。

 これが現地の人たちから聞いたことは全てである。集まった人たちの中でも若い方の池田さんは、「もう私たちの年代じゃあまり使わんけん。」とおっしゃっていた。「残してくれるのはうれしかばいなー」と喜んで下さった。私たちもいろんな方々からこのようにたくさんの話を聞けてうれしく思う。

 嘉瀬川のパンフレットもいただいたので、提出しておきます。



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