【佐賀郡大和町福田地区】 歩き、み。聞く歴史学現地調査レポート S7-35 近沢信人 今回1MD95046 富岡慎一と福田、国分で調査を行った。 福田は明治以降、区画整理が行われ、国道沿いの田は今となっては住宅地等に変わり、福田でも田のことをよく知っておられる方に尋ねてもいわゆる字名しか知らず、得るものが少なかった。また、行政的にも国分と福田は昔から一緒に行ってきたらしい。 国分では色々とうかがえた。独特のしこ名もあったし、三の角、四の角、五の坪といった条里制をうかがわせるしこ名も聞くことが出来た。 湿田も多く、川などは落ちた者を耳を引っ張って助けたといういわれから「耳取川→みいとい川」という名の付いた川があった。 水の配分などの争いごとについては福田は取水する川の近くなので、水が来ないことはない。しかし、下の村から昭和30年代はじめまで水番が来ていたということだった。水源地が近いこともあり、干魃の影響も少なく、94年の水不足の損害も少なかったということだった。 国分は地下水が沸き、他の所が被害を被っているとき、かえって豊作らしい。堀と堤防を巧みに利用して水の量が多い時、少ない時に応じて安定した営みができるようにしていた。 また、村の範囲はあいまいで福田の人が国分にある田を耕作していたりして、不明瞭であった。 吉田和則(国分) 緑色マジック書き 久保国雄(福田) 緑色マジック書き |