【佐賀郡大和町今古賀、江熊野地区】 歴史と異文化理解A現地調査レポート 1EC95121 西原正憲 1EC95155 増田竜児 今古賀の現地調査レポート調査地区、古老の名前 佐賀県佐賀郡大和町今古賀 田中芳美さん 昭和13年生 水利状況 ・昔 山王川から分水し、今古賀地区の溜池に貯水していた。なお、その池の水は今古賀地区の住人しか使わなかった。水田は段々畑のようになっており、余分な水はどんどん下の田へ流していた。 ・現在 足狩(原文ママ、入力者注:芦刈カ)川からポンプで汲み上げている。 旱魃の水対策 昭和14年に旱魃があり、その時は足狩(ママ、入力者注:芦刈カ)川から水を汲み上げると共に、町長に頼んで山王川の水を今古賀地区の田にだけ入れることを許可してもらい、上流の人が堰き止めたりしないようにした。但し一昼夜だけ。 一昨年は時間給水となり、4日に1回しか水を入れられなかったが、収穫高は例年よりも大幅に多かったらしい。 共有の山林 地区ごとに入会山があり、田中氏のところは「大字久留間の山」という呼び名の山であった。 耕地 山王川周辺は湿田で川から遠いところは乾田であり、裏作は麦だった。収穫高は良いときは7俵、旱魃時などは3俵ほどであったらしい。 堆肥は草、藁や単肥(チッソ、リン酸、カリ)を混ぜたものを使っていた。 村の様子 昔の田は規模が小さく枚数が多かったのだが、整備があってからは規模が大きくなり、数が減った。 江熊野の現地調査レポート1 しこ名について 田ん中 地図に記入してあるとおり(地図省略、佐賀県立図書館所蔵)。 浦田、天神、桜井手、行者、八幡原、山大道の6つである。 ホリ そうけ堤 佐賀では米を入れるザルのことを「そうけ」といい、ザルのように水が溜まらないことからこの名が付いた。 でんぼい 蓮堀の佐賀弁 すいばち堤 すり鉢堤の佐賀弁 しいどう どんどん川 しえー川(神水川) 橋 どんこ橋 橋の下には「どんこ」と呼ばれるハゼに似た魚がたくさん泳いでいたのでこの名が付いた。 井樋 江熊野には大きな井樋は存在しないので、井樋全体に付いたしこ名はなく、ただ「〜堤の井樋」というように呼んだ。 2 水利慣行 圃場整備以前は江熊野は主に神水川から水を引き、さらに上記の堤の中にも水を溜めておき、万一の際はそこから水をとっていた。戦前は個人で勝手に水をとってよかったので、上流の横馬場、今山を巻き込んで年中水喧嘩をやっていた。そのため戦後は生産組合が中心となって水当番を決め、どの田にも平等に水が引けるように共同管理するようになった。 圃場整備以後は水路にはいつも水が溜まるようになり、1994年の大干魃の時も水不足が発生するようなことはなかった。 3 村の範囲 村の範囲は(地図省略)に記入している田んぼの境がそのまま境界線となっている。村共有の森林は昔はあったが、現在はゲートボール場になっている。 4 村の耕地 圃場整備以前は江熊野は乾田がほとんどで湿田は乾田の中に点在するだけだった。地図上では確認できない。圃場整備以後は全ての田んぼが乾田となり、裏作では麦、大豆を栽培している。戦前の良田では1反当たり8俵、悪田では5俵とれた。 戦前の肥料はチッ素だけの肥料、リン酸だけの肥料、カリだけの肥料というように単純であった。戦前の肥料はチッ素、リン酸、カリの3つの粒を混ぜ合わせた配合肥料か、一粒の中にチッ素、リン酸、カリが含まれる化成肥料のどちらかが使い分けている。 5 お話を伺った人物紹介 高木剛さん 自分は若いからという理由で辞退なさった。 高木稔さん 野田剛さんの紹介で訪れたが、体調が優れないということで自重。 野田朝男さん 大正10年生まれ 今回の調査に主に答えてくれたご夫婦。 野田千代栗さん 昭和4年生まれ 西田一郎さん 大正12年生まれ |