【小城郡牛津町友田、天満、生立ヶ里地区】

歩き、み、きく歴史学現地調査レポート

1LT95093 成富恵子

1LT95099 仁田 茜

 

友田について

1 しこ名について

 田ん中のしこ名は大体地図に記入したとおり。(地図省略:入力者)。これらのしこ名の中で特に説明があったものは次のとおり。

・しおあそび

 昔のアオの取り入れ口に付近にあり、底地の友田の中でも一番低い場所。潮が混じることもあったので、税低い「免田」となっていた。

・えきまえ

 鉄道開通後の呼称。

・おくらうら

 「おくらさん」の裏に位置することから。

クリークや橋、井樋のしこ名はあまりなく、「はったんがくのいび」のみ。

 

2 村の水利のあり方

 昔から牛津一帯は嘉瀬川水系から水を取り入れていた。佐賀の川上からの水(西芦刈水道)で、三日月町、牛津町、芦刈町の全てを賄っていた。昔は川上まで自転車で水の世話に行くなど大変苦労をしていたが、12時間以上かかって流れてくる水は半分ほどに減っていたそうだ。(引くのは川上の頭首工から。)

 友田は特に低い地域であり、「すりばちの底」の状態なので、井樋は主に大水調整の役割も果たした。しかし、度々水害に見舞われていた。

 また、水の配分に関しては「はす」(じかんど)によって、川上、三日月、牛津、芦刈で日にちによって水を取り入れた。しかし、上流の方が水取に有利なので、「ぬすとみず」という水争いが頻発し、それこそ殺人が起こるほどひどかったと聞かされた。

 この地域では昭和30年代ぐらいにできた北山ダムの恩恵にあずかるところが大きく、まさに「ダム様々」だということだった。1994年の大干魃でも役場で決めたとおり、部落割にして水つけに24時間で3交代という措置(いびわり)をとったが、たいして影響はなかったらしい。この大干魃がダムのない数十年前のことだったなら、全滅したであろうというのが地元の方の意見だった。

 

・アオについて(水争い)

 アオは現在全く利用されていない。北山ダムのできる前に多少使われた程度だが、そのころでもほとんど利用されていなかった。ただ、日照りで川から水が来ないときは、地図に記入したアオ取水口から取り入れた。日は決まっておらず、自分でなめて判断して適宜取った。

 どどろ(水門)での堤防のまねきは、松の木で作った。

 

3 村の範囲について

 村の範囲は地図に記入したとおり。山林がないのでもちろん入会山もない。一部友田とか天満が重複していて話が食い違っている部分がある。「いちのわい」は友田側の人が示したしこ名。

 

4 村の耕地について

 あまり米がとれず裏作もできなかったのは「しおあそび」のみ。

戦前 しおあそび 反収 56

   その他   反収 8

戦後 たいていどこも 反収 8

 

戦前の肥料

 リン酸カリ、チッソなどや堆肥を各家で混ぜて使っていた。40年くらい前まで混合飼料で馬や牛を使っていた。

 また、畑には人糞も使っていた。

 

5 その他いろいろなことについて

 昔と今とを比べると、昔は1町作れば一家を養っていけたけれども、今は10町は作らないと無理なのだそうだ。機械化が進み、色々と膨大な支出が出るのが主な原因らしい。先々の展望については、今の役所の方針では水口等の維持管理など、様々な問題が出てくるだろうということだった。跡継ぎの問題もその一つで、近くの練ヶ里では12人しか専業農家の方がいないそうだ。先のことは農家の方自身も全く分からないとおっしゃっていた。

 昔の農業のことから、今の農業のこと、中国の農業のこと、それから満洲や出兵した話までしていただいて、とても有意義な訪問だった。大学の授業だけでは知り得ない話を貴重な時間を割いて教えてくださった大坪様ご一家に深く感謝したい。

 

お話をして下さった方

 大坪武敏さん 大正14年生まれ

 大坪由久さん

 

天満について

 以前は天満という地名ではなく、定原という地名であった。

しこ名について尋ねてみたが、しこ名というものがどのようなものかきちんと把握してもらった上で、特にそのようなもはないという返事だったので、おそらくしこ名はないのであろう。

呼び方してはそばの堀の名と、その田の面積とを組み合わせた呼び方で、例えば「しんぼいの四反なかに行く」などと呼ばれていたらしい。

 田んぼについて、天満の中では特に良い田、悪い田はなく、ほぼ全部の田んぼは良い田であるとのことだった。というのは天満は友田などに比べて高くなっており、排水が良いため水害とかにはなりにくく、逆に水が少々少ない時でも粘土質のため、水分が保たれやすいためである。

収穫量も戦前は一反当たり8俵、現在でも99俵半とれているそうだ。戦前と戦後で著しく異なっているのは肥料の点と農業方針の点であった。

肥料については戦前は魚粉、馬の堆肥を主とする自給肥料であったが、戦後まもなく化学肥料に移った。

また、方針としては戦前と戦後しばらくは収穫本位で量産できる米を作っていたが、減反政策以後は良質の米を作っているとのことであった。

一昨年の干ばつの時のことについても尋ねたところ、嘉瀬川水系がしっかりとしていて、先にも述べたとおり、地形、地質に恵まれて役場で決められたとおり、部落分けして約19時間の割り当てで8回の井樋割り付けを行ったため、却って豊作だったという。しかし、条件的にも恵まれた天満でも30年前、北山ダムがなかったとしたら、もちろん全滅していたという。

井堰については、昔、天満の中井堰から沖神社のほうまで、一直線に斜めにつながっいたが、今は小城の芦刈まで一旦南に下り、そこから沖神社まで西の方へ延びている。天満の井堰は中井堰と、ぜんさい井堰の二つだが、すぐ北東におとめ井樋がある。

アオについては有明海からの逆流でできるような大きい川もないため、アオはないとのことだった。

村の範囲、井堰、堀の名前と位置については、地図に記入したとおり(地図省略:入力者)

 

お話をして下さった方

 大坪富行さん 昭和2年生まれ

 古賀丈二さん 昭和5年生まれ

 

生立ヶ里

1 しこ名について

  しこ名は地図に記入したとおり。(地図省略、佐賀県立図書館所蔵)。説明があったものは次のとおり。

・さきあぼい

 「境のほり」の意味で、生立ヶ里と三日月との境。

・のばか

 「野墓」、墓地。

・やまじろ

 竹林

・ちんちくばやし

 小さい林

・にしでい

 「にしんかわ」の「でい」で、にしんかわ沿い一帯。

 

2 村の水利のあり方について

 友田、天満と同じく嘉瀬川水系。大和、牛津、芦刈、ほか下の小城の方にも共通の用水だそうで、五ヶ町で分けているだろうということだった。この水路(西芦刈水道)は、北山ダムに加入したところのみしか使用できない。

 旱魃のときなどには、やはり水争いが起こったそうだ。「みずひき」といって、大和町まで30余里ある井樋にそれぞ番を置いて、一部落一昼夜水を引いたりしたそうだ。しかし、夜中上の方から泳いできて、こっそり井樋の草の栓を抜いたりする人も出たということだった。

 1994年の大干魃ではね各町村で反別に対して水を配分した。牛津は19時間の割り当てで4日に1度は水引きをした。

 30年前にこの旱魃が起こっていたらどのようなことが想定されるかを尋ねると、やはり北山ダムがなかったらダメだったろうということだった。全滅だったかどうかは、昔の水道は場所によって良い所と悪い所があったので、そこによって違うということだった。

 

3 村の範囲について

 境界は地図に記入したとおり。(地図省略:入力者)。山林がないのでもちろん入会山もない。

 

4 村の耕地について

 「にしんかわ」付近の地図で、斜線を示した場所は排水ができないため、裏作で麦がつくれない。しかし、米のできは他と比べて悪いわけではないそうだ。その他にも特に悪い田というところはない。

 戦前……反収 7

 戦後……反収 78

戦前と現在で反収がそう違わないのは農業方針が「量より質」に変わってきたためであり、もっと多く作ろうとすれば、それも可能だそうだ。

 

戦前の肥料

・牛馬の堆肥

・硫安(チッソ肥料)

・過リン酸石灰

・豆すて(大豆から作る)

・カリ

 これらを各家で混ぜ合わせる。

 

5 その他のことについて

 昔と今で、生立ヶ里で最も変わったのは戸数だそうだ。昔は農家戸数が18戸しかなかったのだが、今は全戸数で97戸、農家戸数は14戸と大幅に増加している。この傾向で役員はしにくくなったそうだが、部落の経済には余裕が出てきているということで、私たちも古い公民館の隣に広くてきれいな新しい公民館が建っているのを見かけた。

 生立ヶ里でもほとんどが兼業農家で、専業の方は4名ほどだそうだ。今後も専業農家は減っていくだろうし、田を預ける人が多くなるだろうということだった。

 今回一番勉強になったことは、いろいろな人たちに出会えて、話を聞けたことだった。質問にも答えて下さった方々はもちろん、ただ道を尋ねた方も、とても親切に丁寧に教えて下さって、本当に嬉しかった。農業について考える機会ももてて、とてもよい経験になったと思う。

 

お話をして下さった方

 中原一雄さん 大正15年生まれ

 



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