【小城郡牛津町谷、村山、内砥川地区】

歴史と異文化理解現地調査レポート。

1EC95142 藤田陽生

1EC95159 松島健児

谷では手紙を出した人が留守だったので、他の人に紹介してもらったり、聞き取りを中心に行った。周りが山ということで、みかん畑と水田が半々ぐらいであった。

 

村山

 昔は共同の山があったらしいので、この名がついたと思われると言っていた。しかし、今はないということだった。

池田さん(70)

内砥川

・羽佐間水路

 多久の羽佐間から水路を引いていることからこの名が付いた。

・昔の共同林

 現在では開墾されて蜜柑畑になっている。

・堀切(ほりき)

 山の水系が出っ張っていて自分の郡に来なかったので、山を20mぐらい斬って来るようにしたということだ。また、そういう仕事を代々してきた人たちは堀切族(ほいきぞく)と呼ばれ、特別な人とされてきた。

・水路の水

 多久の方から流れてくるので、昔は水路と水路の間に多久の領地に確保していたそうだ。

・ひゅうたんぼい

 ひゅうたんぼいには湧水があった。しかし出なくなって堤争いが起こったそうだ。その際、上の方が力が強かったそうで、内田などは何もしなくても水が来る一等地だったが、竹下などは水利権をあまりもっていなかったので、水車などを使って水をもってこなくてはならなかったそうだ。水待で水をとめて溜まったのを、使用時間外で汲むことができたそうだ。

・部落の四方向に神様を祀ってあり、水田、稲作の行事がある前には弁財天様にワカメ入りのおにぎりと御神酒をもってお参りしたそうだ。

 

1994年の渇水対策について

6月頃

 牛津町で下水問題で話をして、雨が降らない時には下水より水田を重視するように決めたそうだ。

7月頃

 羽佐間水道から水を引かなければならなくなった。この水路は悪水で、大雨の時は洪水になっていたので手放すつもりでいたらしい。だが、水利権はもたないものの組合費を半分は出していたので、水を助け合いでもらえたそうだ。この水路のおかげで助かった。これは7月ににわか雨が降り、水路の循環がうまい具合にいったのも要因だそうだ。

 他にも昔の井がまは水がこもっていたので良かったが、現在の井戸は整備が行き届いて水もりがない。しかし、ここの部落ではまだ井がまをもっていたので助かったそうだ。

 隣り合わせの田んぼでも稲がとれた所と全くとれなかったところも、地区と地区の間とかではあったそうだ。

また、井戸を150m掘ったそうだ。その費用は県が半分、町が4分の1出して、1割負担であったそうだ。

 

30年前であったら

 まず枯れていただろうということだった。国からの援助で、今ではポンプ技術が発達したが、当時の人力水車の力では限界があったそうだ。ひょうたんぼいなどは、湧水のおかげで稲はかわらずとれたそうだ。普段はよくとれる内田でも10町中1町しか助からなかったそうだ。

 

 水害と渇水では水害の方に重きを置いていたので、2年前の渇水以来は平等に考えるようになったそうだ。昔から内田では平等によくとれる田であったそうだ。またクリーク兼水田もあり、これは国からの税金もとられないが水害にあった時も援助はしないという湧水的水田があり、隣地区ともし水害にあった場合は、片方に被害がいくのではなく、相互に影響を受け合うようにしているそうだ。

 裏作は今では全ての田で可能だそうだ。乾田は竹下あたりに、湿田はひょうたんぼい、だぼいなどだそうだ。大飢饉の時でも湿田では穫れていたそうで、10cmの差でできる所とできない所なども昔はあったそうだ。飢饉の時、底水は他の田の人は汲めず、上水だけがよかったということだ。

馬場清人さん(63)

陣内司郎さん(62)

内砥川では尋ねた人が昔の地図をわざわざ役場から取り寄せて下さったり、また牛津町の歴史などの本も見せて頂いた。しかも田などに詳しい人をわざわざ呼んで下さり、2時間も熱心に教えて下さった。

両方の地区とも皆さん、とても親切に道を教えて下さったりしてとてもスムーズにできた。皆さんに感謝したい。



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