【小城郡牛津町大戸ヶ里、前満江、西江津、砥川町地区】 歴史と異文化理解A現地調査レポート 1EC95143Y 藤谷恒太郎 1EC95161R 三浦 博史 1EC95178Y 山岡 英樹 1EC95177 八木 賢治 調査期日 1月14日(日) 調査した村 大戸ヶ里、前満江、西江津、砥川町 1月14日(日)雨の中佐賀まで行った。午前中に現地に着いたが、手紙あるいは電話で連絡をとった方の家が分からなかった。とにかくその付近まで行き、最初にあった家で尋ね教えてもらった。はじめに手紙を出した前満江の辻さんのお宅で話を聞いたが、あまり覚えていらっしゃらなかった。そこで、近くの家を何軒か訪ねしこ名などを聞いた。突然の訪問にもかかわらず、皆さん親切に教えて下さった。 次に、大戸ヶ里の吉田さん宅を訪ねた。この方は手紙を出した川谷さんに紹介してもらった方だ。昔その辺りの田を持っていた野田さんという老人を紹介してもらい行ってみた。野田さんも「ずいぶん昔のことで……」とおっしゃっていたが、無理矢理思い出してもらい、かなり成果が上がった。しこ名の由来もいくつか分かった。 大戸ヶ里と比べて前満江は今の50代からの人が3代目くらいで、集落としては比較的新しいらしい。また、前満江の集落の中でもお宮がある辺りは宮地と呼ばれていたらしい。 次にしこ名の由来について(川も堀も含む) ・にしわき 西の脇の方にあるから。 ・ひらき 昔は川だった場所で開拓してできたから。 ・うまいりがわ 昔川があったから ・えんてい 長い川という意味の川 ・くせだ 300坪が1反であるけれど、280〜290坪ぐらいしかなかったから。 ・ずんぶり田 大水のときに水浸しになるから。 ・ろくせだ 6畝しかないから。 *20年以上前に区画整備が行われて、昔の田の形が変わってしまい、現在その名を使っていないので、現地の人もほとんど忘れてしまったらしい。また、高齢の方もだいたい記憶されていたが、まだ思い出せない田があるらしい。これから先、ますますこのしこ名は死語になりつつあり、人々の記憶から消え去る前に調査できてよかった。 砥川町 手紙を送った人から「1月14日は町の大会があるからダメ」と言われたので、行きあたりばったり方式で住民の皆様に聞くことにした。その日は雨で、皆さん家におられるかと思いきや、農家の人はおられず、新興住宅で何も知らない人々ばかりがいたが、ほん砥川町はしこ名と言ってもほとんど個別の名前はなく、四本松、徳満、上砥川、芝浦を代表とする大まかに分けられているだけであった。 五田田、代六などのように小さいものはほとんどなかったし、二人ともあまり覚えておられなかった。なぜなら、最近急激に土地整理が行われて、地図で見ても分からないということだ。名前だけを聞こうとしたが、佐賀弁で「分からないものは分からん」といった感じで笑いながら答えていた。 水路……「しこぼり」で大体統一していた。 橋……お宮のあたりを「テンジンサンバシ」と言っていた。二人そろってこれしか覚えてくれていなかった。 ・水不足時の水対策 「水もあげ」……川から水を汲み上げた。みんなで協力してやった。 ・土井さん ここらへんは両新村がだんだん土地を広げてきて、砥川は狭くなった。(いきなりどうしてこうなったのでろう)反別では区別してたんだ」と言われたが、私には何のことか(どのように、何を反別で区別していたか)分からない。 結果報告 最近このあたりはどんどん開発されていて、私たちが訪れたとき辺りは新興住宅だらけだった。老人の方もあまりおられず苦労した。土井さんは今の農家の現状を30〜40分話してくださった。 江津 砥川町よりも人口密度が高く、田んぼがあまりない印象をもったが、昔ながらの人々がいて話を聞けた。しかし、江津のことはあまり話してくださらず、柿樋瀬や砥川町などのように、全く遠く離れた所の話をしてくださるので苦労した。 また、この人に紹介していただいた「この辺の一番の物知りおじさん」山本さんの家へ訪ねて行ったが、お話をうかがえなかった。5時からバイトがあったため、急いで帰ることで合意。そのため、他の場所のように詳しく調べることはできず、地図上の箇所ぐらいしか分かりませんでした。 名の由来 京の島……昔本当に島だった。 法木……近くの寺に御神木があり、それが見えたため。 |