【小城郡牛津町大戸ヶ里、江津ヶ里地区】 歴史と異文化理解A現地調査レポート 69班 943006 有江孝行 943009 伊賀久訓 943120 中野敬介 大戸ヶ里 お話をお伺いした方 野田正之さん(70) 吉田益太郎さん(74) 大戸ヶ里は二本松と三本松から成り立っている。今の県道が境目。水は牛津江川から引き(これは江津ヶ里と同様)。水争いというものはなかった。 戦前は7〜8俵とれ、戦後は10俵とれるようになった。田ん中の収穫量はどれもほぼ同じくらいであった。裏作(麦)はどの田ん中でもできる。 大戸ヶ里は堤防で囲まれ、小雨ですぐ水が流入してきた。(戦前) 道や橋にしこ名はないが、「はなぽん」の農道なら「はなぽんの道」などと言っていた。小さな橋の上に「どろ橋」というのがあったらしい(場所不明)。 家の前の田ん中のことを「わさ田」とこの辺りでは呼んでいる。 *注意 地図の「二本松」と「三本松」の位置が違うと言っていた。 しこ名は今呼んでいるものは少なく、位置についてはかなの記憶が薄れている。しこ名は正確な区域を指していない。 江津ヶ里 お話をお伺いした方 池田正徳さん(64) 江津ヶ里は黒木と壱本松から成る。水は大戸ヶ里と同様、牛津江川から引いている。水のことで部落同志の対立はなかったが、個人間では互いに水利権を主張して裁判に発展したことが、30〜40年前あったらしい。ししょうめんの区域は前満江方面への水路なので、江津ヶ里の人はその水路の掃除をしなかった。 ・「だんとうじま」の辺りが一番収穫量が多いそうだが、全体的にどこの田ん中も大差はなかった。 ・「じんのうち」は昔殿様屋敷だった(らしい)所で、今は「じんのうち」屋敷と呼んでいるそうだ。 しこ名の中には「てらまえ」「てらうち」などといったものもあり、寺の裏だから「てらうら」と、その意味が今も分かる所がある。しかし、「だんとうじま」などは昔からのもので、今も由来は分からない。歴史的発生時期が違うのだろう。 「むらうち」を通る道を特定的に「むらみち」と呼んでいた。「むらうち」は「むらんうち」が変化したものである。このように「てらまえ」ね「てらんまえ」などの変化と言ってもよいであろう。 *調査対象外だったが、前満江あたりの田ん中の「しこ名」は「みやじ」と呼び、池田さん所有の田の一帯を「まちうら」と呼んでいた。 調査についての総括 お年寄りから昔のこと、特にしこ名という、いわば歴史的遺産を収穫できたということは、非常に意義があることだと思った。特にこのまま埋もれていく「しこ名」などについてのことを、僕たち若い世代の手によって受け継いだことにその意義深さを感じる。 協力して下さった各方には僕たちに対して非常に好意的に協力してくれた。それによって、調査が円滑に進み、多くのしこ名、田ん中についての話など、色々と聞けたことを非常に感謝したい。歴史的遺産の発掘をこの手で行って、それをじかに手に触れることができたと感じることで、この調査の目的を成し遂げたと言えると思う。 |