【小城郡牛津町泉、新屋敷地区】 歴史と異文化理解現地調査レポート。 1EC95152 前田裕章 1EC95173 持永弘胤 まず「泉」は両新村区域内の地域であった。昔から「泉」の名は使われていたが、明確な形の部落として認知されたのは昭和30年頃からで、それ以前は「泉」の住民は両新村に出作しに行ったらしい。 この部落の住民は、杵島炭鉱系の砥川炭鉱で働いていた「居残り組」と、よそから集まってきた「移住組」で構成された、いわば寄せ集めの地域である。従って、この辺りには、北村さん夫婦の話によれば「田ん中」は殆ど存在せず、あったとしても、その「しこ名」を知っている人はいないだろうということだった。 なお、「泉」には先述の砥川炭鉱の坑口があった。その開坑は、1934年4月のことであった。しかし、炭坑に水が出て、1945年に廃坑となってしまい、この際、上砥川地区の田ん中は陥没してしまった。その後、1972年の原型復旧を目的とした「鉱害復旧事業」を皮切りに、次々と復旧事業が行われた。(詳しくは後述) しかし、やはり言葉の中に曖昧さを感じた。時間のせいだろう。文:持永弘胤 次に「新屋敷」地区について 昔、長崎街道は参勤交代の時、大名の通る道であったので、街道沿いに住んでいた農民が街道沿いから追い出され、現在の新屋敷地区に移り住んだのが始まりらしい。その当時は4,5軒程度の農家の集まりであったが、現在は15軒ぐらいになっている。家はほとんどが鍵家となっており、家を日の出の方向(東側)に出している。 昔から水には恵まれていたが、その反面、水害の多い土地でもあった。特にひどかったのは昭和24年と28年の水害で、頭を越える程水に浸かったらしい。その間も毎年水害が起こり、大変な苦労があったそうだ。 1945年に砥川炭坑などで水が出たため、この地区一帯の水田も陥没した。住民は復旧工事を要求したが、この事実を明らかにする調査が長引き、1972年にやっと復旧が始まった。その後も数回にわたり復旧事業行われ、この地区でも土地改良が行われた。5年前にも堤防の決壊から床上70cm程の浸水があり、このときの政府の復旧事業により、最終的に、現在のような水田が広がるようになったそうだ。そのため、今回準備分の地図と異なる部分があったようだ。 この地区のしこ名は3人の方にお話を伺い、地図に記した。しこ名は昔から呼び名として定着していたため、漢字が分からないものがあった。また、漢字を記入したものも正しいかどうか分からないということでした。 水利慣行は前に述べたように、牛津川の水に恵まれ、水不足を経験したことはないとのこと。田は乾田で、川の側なのでクリークの水が減らされたらしい。また、昭和10年代まで炭坑でとれた石炭を積むため、川に船が往来していたらしい。 以上のことを聞くことができた。その他にも農業の後継者不足の話、戦争の話などを聞くことが出来、貴重な体験をしたと思う。最後に僕たちを快く迎えてくれて、親切に質問に答えて下さった方々に感謝したい。 文)前田裕章 お話を聞かせてくださった方 早木松雄さん(明治45年生まれ) 北村作治さん(大正8年生まれ) 北村サオさん(昭和3年生まれ) 源五郎丸正孝さん(昭和10年生まれ) |