【三養基郡上峰村屋形原地区】 現地調査レポート S1-26 1AG95003■ 赤井紀子 1AG95008■ 安部友子 1 聞き取りの方法 手紙を出したところ石橋幼吉さん(昭和3年生まれ)宅を訪ねたところ、三好克也さん(大正8年生まれ)を招いて下さっていた。そこで、石橋さん宅にお邪魔して聞き取りを始めた。初めはしこ名などが分かるのは三好さん以前の人たちで、自分たちには分からないと言われたが、小字の載った地図などで場所を確認していたところ、少しずつ思い出して下さったのを地図に記録していくにした。(地図は佐賀県立図書館所蔵) 2 聞き取りの内容について (1) しこ名の話を聞く (2) ほりの話を聞く ほりは天満宮の西北側に一つだけあるが、きゅうぶつりんぺい、外3名など人の名前で呼ばれていた。小さいので個人が作っていたため。 (3) 橋について 主な川は東川(切通川、一級河川)と西川の二つで東川と県道にかかっているのを東川橋、西川と旧道にかかっているのを西川橋と言う。 (4) 井樋について 小さいいではたくさんある(2反くらい賄う)が、それらに名前はない。大きいいでは5~6反賄う。それらのいでの下にはたくさんの水があり、それより南の田のための水となる。 ・かみのいで ・いりゅういで ・どううらのいで ・あげったいで ・まがりだいで ・にしんそののいで ・どうでいて (5) 村の水利のあり方 ①井樋からの ・にしんその……にしんそののイデから ・いりゅう……いりゅうイデから ・どうのうら……どうのうらイデから ・あげった……あげったイデから ・まがりだ……まがりだイデから ②溜池から ・ごまが池……まえだ(天満宮前)の人たちに水利権あり。 ・しんつつみ……堤と屋形原共有の溜池(水利共有) ・たにだ……小さな溜池 ③ほりから ②と重複するので略。 ④生活用水(なががわ) 東川の西側を流れている。昭和30年ごろまでは天満宮周辺の部落の人たちが炊飯などの生活用水に利用していた。 2 水争い……なし ホリ、ゴミの所有権……なし(ホリが小さく、個人で作っていたため) 3 1994年の水不足 他の村からのもらい水はなく、自給自足で賄っていた。犠牲田もなく、用水ポンプを使って水利権などは関係なく、水のある所から汲み出して、午前はだれ、午後はだれというふうに決めて順番に水をかけていた。兼業農家がほとんどのため、水をかける時間のない人が多いせいもある。 これが30年前なら、ポンプで汲み出すにも今のように機械形式ではないので、筒型の用水ポンプ(2m)を継ぎ足して水をため、さらにまたポンプを継ぎ足して水をためるということを繰り返して水を得た。 村の範囲 はっきりとした目印がなどは分からないが、だいたいのところを教わって地図に記した。(地図省略:入力者) 村の耕地 裏作ができる田(乾田)、できない田(湿田)はあった。良田(乾田)は部落の辺りの田で、湿田は堤との境界の辺り(ふくろんはるの辺り)にあった。湿田は地下水が高く、左右からの光も悪く、水も冷たいためである。平地は劣な田(山と山とのあいだ)である。 戦前の肥料 鰯を干したもの。夏は青草、木の若芽、茅などを田に入れる。牛や馬のしきわらを腐敗させたものを入れたりもした。三好さんが17~18歳のころは、石灰窒素を入れていた。これは水俣病の原因になったらしい。 村の姿の変わり方、日本農業の展望 周りが工業倉庫のようなものばかりで、ここには特産品もないので、どうしても農工一体の零細農業にならざるを得ない。農業が大型化して仕事はしやすくなるが、結局、今後農業だけで自立していくことができないので、今は土地改良をする時期ではないのでは……。 |