【三養基郡上峰村堤地区】 切通区での現地調査のレポート S1-26 倉吉隆志 阿南光政 「しこ名」について しこ名を聞くに当たって、この地区には30位ありそうであったが、あまりの数の多さと昔のことであったので、地元の方は忘れておられた。しかし、お話をうかがっているうちに四人の方が断片的にではあるが思い出して下さったので、最初14、15ぐらいだったしこ名は20位聞き出すことができた。しこ名の位置について詳しくは地図に記入する(地図は佐賀県立図書館所蔵)。そのいわれや現在の状況などお話し下さったことを書きたいと思う。 南西部に「ニシンタニ」(西ノ谷)と呼ばれる所があったが、今では池になっており、多くの太公望が釣り糸を垂れていた。何故池になったかについては「水利とその慣行」で書くことにする。 また中には昔の集落の跡で、その呼び方がしこ名になった「ウードリ」(大鳥)というところもあった。北部に「マツヤマガシラ」という所があるが、それの下、つまり南に位置するからしこ名が「シタダ」と付いたところもあった。 「オゴロ」という所があるがこれは屋形原との間にまたがる所で、川により堤と屋形原とに分けられるということだった。 しこ名のアクセントについては、前にあるものよりも後に付いているものが方が多かった。例えば「オゴロ¬」、「ヤツ¬ー」「シタダ¬」「ウラダ¬」等である。また、中にはヒ¬ガシ等、前にアクセントのある所もあった。アクセントについては地図中のしこ名の横に緑色の印を付けている。 水利とその慣行について 事前によく佐賀平野は乾燥しやすいと聞いていたので、その点について地元の人にお聞きすると、「ここではそげん旱魃は起こらん」と言われた。理由を尋ねると次のような答えが帰ってきた。 堤地区の北東部に飛び地のように存在する二つの溜池がある。名前は「上の新立」、「下の新立」であるが、この二つの溜池のおかげで堤は旱魃しないのだという。さらに聞くと、「上の新立」の水は堤だけではなく、周辺の地区にも水を分けるという重要な水源であるそうだ。堤ではこの水は主に北部の田畑が使用し、その際、「上の新立」から「下の新立」に水を落として使うということであった。できるだけ大切に水を使うので、この方法でどんな旱魃でもたいてい乗り切れるそうだ。去年1994年は大干魃であったが、この年も例外ではなく、ここではたいした被害はでなかったのである。 ここで注意しなければならないのは、この二つの溜池の所有権は堤にあり、他の地区に水を分ける場合もあくまで「堤が水をやる」という形をとるそうである。その旨を聞き直すと、「堤が水をやりよっと」と得意な顔をしておられた。 しかし、池の水を使うのは堤でも北の方だけで、南の方は川の水をイデ(方言で堰の意)、から取っていた。川は旱魃でも干上がってしまうことはないそうだが、それでも昔は水源が川だけだったのできつかった、お話しして下さった。それぞれのイデの利用地区について書いておくこととする。 オゴロの横にあるオゴロンイデ(オゴロのイデ)はその名の通り、オゴロへの取水のためのイデである。マエダの取水はガランイデからであった。ノミミズイデ(話では昔は飲料水摂取のためのイデであったらしい)の下流から用水路を引っ張ってきて、それをまたマエダの水にしたそうである。 下流の方にはゴンザイデというものがあるが、これは主にヤツー(ヤトウ)のためのものであり、カワンイデはヤジロマルやハヤシノシタへの取水のためのイデである。 西の方をみると大谷川沿いにイチノイデ、ロクタンガクノイデ(取水先の田が六反あったかららしい)があり、この二つの間にもイデが存在する。しかし名前については地元の方は忘れておいでであった。が、ロクタンガクノイデはヤツーへ、名のないイデの方は船石方面への取水をするという役目がある。これらのイデの位置については地図に記入しておく。しかし、今ではニシンタニの田をつぶしてそこに溜池をつくった。川が工場の排水で汚れたせいもあり、今ではほとんどこの池の水を使っていて、昔に比べてだいぶ助かっているとのことであった。 次に水利慣行についてであるが、前記したように池は堤地区の所有であるため、池の水の利用については他の地区との特別な取り決めはない。が、池の水はなくなると、まず「上の新立」へ川から水を引いてきてためる。この川は上の地区の所有であるため、この際、取水に関して取り決めがある。 取水時間及び期間は、日没から夜明けまで、すなわち日の沈んでいる間に、期間は12月29日から4月いっぱいまでためてよい、とのことだった。この間に堤だけでなく周辺の上の新立の水を使う地区の農業用水までためなくてはならないことになる。 また、12月29日に上の新立と下の新立を結ぶ水路の整備を総出で行い、その時にイデアゲ(イデの整備)も一緒に念入りにやるということであった。これは昔から決められていることであり、これを守っていると水争いは起こらず、そのため地の地区との水争いはほとんど起こらなかったということだった。 村のことについて 村の範囲については地図の色鉛筆で赤くふちどってある範囲である。東の端は大谷川である。大谷川には昔、ヨシオ川と別の名で呼ばれていた。 北へ見ていくと、境界はイワノの北の道を通り、その北にある山沿い、下の新立の東沿いを通って上の新立を取り囲むようになっている。そしてトウノモトの上の道を通って、その西に位置するボロ山と呼ばれる丘陵地の谷間を通って南へと伸び、フクノハルに沿ってのびている。 この辺りからは道を境として川に達し、その川に沿ってオゴロンイデの少し南の辺りにまで境界が達した所で西へと方向が延びる。 屋形原との間にまたがるドジャクと呼ばれる小山の谷間の所にある道から旧道沿いにその南のフタツカヤマを斜めに横切るように境界はのび、南の長崎本線からヤジロマルの東の道へ、そして大谷川へと続く。 これが村の範囲であるが、だいたい地図にある程度である。 堤地区には特によく米のとれる所、またあまりとれない所というのは存在しない。ほとんどの所でだいたい1反当たり7俵位の収穫があるそうだ。この中でも比較的米のとれる所でだいたい1反当たり8俵程度であり、他の収穫とあまり変わらないと言える。 肥料は昔魚粉(イワシの形をしたものを臼でひいたもの)や、タナネカス、マメカス、油カス等で、その当時どの家でも馬または牛、そして床下にはニワトリを飼っており、これらの糞も重要な肥料となっていた。 この際、昔の米はうまかったと言っておられたので、どこの米が一番うまかったかと尋ねると、マエダとの答えであった。つまり、マエダはうまい米が、しかも少し多めにとれるということになるわけである。 地元の方にその理由を尋ねると地が深い、すなわち土の層が厚いからではないかということであった。昔の米はうまかった、今の米の味はものたりないと口をそろえ言われた。やはり化学肥料、農薬、機械等を使っていくらか楽をして作ったものよりも、自然の肥料を使って苦労して育てたものの方がうまいと言えるのは頷ける気がする。 最後に品種の特性としてどの様なものを望むかという問いに対して、返答は次のようであった。 欲を言えば限りないが、背が低いもの、すなわち倒れにくいものがよい。倒れてしまっては今までの苦労が水の泡であり、欲を言うなら実がたくさんなるものということであった。 今回の調査は農学部に所属するものとしてたいへん有意義なものであった。農業の歴史を少しではあるが垣間見ることができて大変よい体験をできたと感じた。 調査に協力して下さった方々(敬称略) 区長 堤 清茂(昭和11年生まれ) 矢動丸泰雄(大正3年生まれ) 矢動丸茂利(昭和2年生まれ) 矢動丸ミツエ(大正15年生まれ) |