【三養基郡上峰村下津毛地区】 下津毛のレポート 1AG95017■ 池畑 1AG95037■ 岩田 しこ名についての質問 ほり 京井手 連堀 はすぼい どじょうぼい しいど 京井手のこと。俗名になった地域に沿って付けられている。 井樋 なかったです。 水田にかかる水はどこから引水されているか。 →車の下付近や下記(入力者注:外記カ)溜池から引水されている。 どこにある何という川、何という溜池を利用するのか。 →村の東部を流れる切通川や下記溜池を利用している。 何という井樋から取り入れるのか →井樋はなかった。 その用水は単独の水利なのか。他村と共有なのか。 →3つの村で共有しており、上坊所、下坊所、下津毛で利用している。 配分に際しての特別な水利慣行があったのか。そしてどのような内容なのか。 →水利慣行はあり、水を出す場所は16本あったが、下の3本が下津毛優先だった。最悪の時は上、下坊所にやらないでよかった。 過去に水争いはあったのたか、あったならばどこの村と争うことがあったのか。 →2回。上、下坊所と争った。 淡水灌漑を利用するか。 →利用していません。 非灌漑時期のゴミやホリの所有権はどうなっているのか。 →田んぼの周囲の人に所有権があった。 1994年は未曾有の旱魃の年であったが、例年はしないけれども、去年特別にした水対策にはどのようなものがあったのか。 →旱魃はなかった。 村の共有の山林があったのか。 →あった。地図に記入。(地図は佐賀県立図書館所蔵) この村では特に米がよくとれる場所やとれない場所に差があったのか。 →あった。裏作ができる田、できない田があった。 戦前の良い田は反当たり何俵で悪い田は何俵ぐらいなのか。そしてどのような肥料を使っていたのか。 →良い田は6〜7俵、悪い田は5〜6俵であった。使用していた肥料は人糞や大豆カスであった。 村の姿の変わり方 →最近兼業農家が増えてきていて、ここの家の人も兼業農家であるそうだ。若い人はサラリーマンになっていく傾向がある。あと後継者が減少してきている。 今後の日本農業への展望 →地域によって農業も縮小されていく気がするそうです。 お話をして下さった方 納富信逸さん 明治35年 94才 倉男さん 昭和12年 57才 |