【三養基郡上峰村下坊所地区】 歴史と異文化Aレポート 1AG95047■ 榎木千恵子 1AG95064■ 緒方 由香
1 方法 まず、地図を広げて現在地を確認。話を聞くご老人に全体を把握してもらう。現在の地図と圃場整備前の地図を照らし合わせながら、井樋や溜池の位置を書き込み、水利のあり方などを質問しながら話を聞き、メモをとる。 2 内容 @村の水利のあり方について 昔は外記(げき)の堤(つつみ、昔は前牟田、市武にまで水利権があった)という溜池から水を引いて、水田に使う水のほとんどをまかなっていた。用水路の各地点にある井樋(制水門。話を伺った方は「井堰」(いぜき)とおっしゃっていた)にポンプを設置し、汲み上げて利用していた。井樋の名前は東から次のとおりである。 樋道 ひどう 一本松 いっぽんまつ 亀尻 かめじり 境手 きょうで あと、旱魃の時にだけ利用するポンプも一つあった。外記の堤は現在、下津毛と上坊所で管理しており、溜池の側面に縦に打ち込んである杭を上から順に抜き、水を放流する仕組になっている。旱魃の時など溜池の下から3本目の杭までしか水が溜まっていない時は、下坊所は利用することができないという水利慣行がある。そのため、旱魃などに備えて下坊所では深井戸を堀り、対応していた。 その他には有明海が満潮になるときに用水路に逆流してくる淡水(あお)を村下という井樋からポンプアップして賄っていた。(淡水があがってくる地域は地図中に表記。地図は佐賀県立図書館所蔵) 昭和18年、19年頃までは西の堤(図中に表記)という溜池も利用していたが、戦争中、埋め立てられて飛行場に変えられた。郡部は西の堤の代替として別の溜池をつくった。この溜池の水利権は西の堤の水利権をもっていた。米多と坊所が引き続きもつことになった。現在はその溜池もなくなった分の水は、深井戸(深さ150mくらい)を掘って補っている。 深井戸から利用できる水の量はかなりあって、一つの田んぼは余裕で賄えるということだった。 水争いは、昔は激しかったようで、個人同士で鍬を振り回して……ということもあったそうだ。部落同士でもあったそうだが、だんだん水利権に対する態度は厳しくなったそうだ。 淡水は6月上旬から10月上旬くらいまで、15日周期で有明海から米多や前牟田の農家が取り入れたものをもらうという形で利用した。 非灌漑時期のゴミとりについて 「かんぴょい」というスコップのようなものを使って冬の間ホリから田んぼに掬い上げ、乾燥させてそのまま利用する。「ゴミとり」というと田植え前の用水路の掃除のことを指し、普通は溝浚いと言うそうだ。これは昭和28年あるいは30年頃まで行われていたようだ。 1994年(平成6年)の旱魃に対してとった水対策について 圃場整備後は水の便がよく、また井戸水が豊富なことから、水不足などの影響はなく、他の村からもらい水をすることも全くなかったということだ。 もし大干魃が30年前のできごとだったら 穂がつかないというよりも、出ることすらなかっただろう。かなりひどい状況に陥っていただろう。8月末から9月の初めは必ず水が必要なのだそうだ。水をやらないと、穂が出ないということだ。 村の範囲について 入会山については祭山(まついやま、広さ500u=5a)という小さな山が、なわわらという田んぼの北の方にあったそうだ。昔は東、西、中、祭組という四つに分かれており、田んぼや山を共有していたそうだ。佐渡宮のまわりを囲む林は4人の名義になっているそうだ。深田という田んぼの所には竹やぶ(小さい山)があり、石像もあるということだ。 村の耕地について 下坊所では田んぼによってそれほど収穫高に差が無く、湿田は深田だけであり、それ以外の田んぼは平均的に良田であるということだ。そもそも深田というしこ名は、底が深いということから付いた名であるそうだ。 戦前は反当たり6〜8俵、戦後(現在)は10俵とれるということである。 戦前に使われていた肥料としては大豆かすが主で、外には硫安や過燐酸石灰がある。 村の姿の変わり方について 昔は田植えや収穫の際には多くの人が必要で、農家のお嫁さんが田んぼの手伝いに出ることは当たり前であったが、今は大型機械の導入で人手もいらなくなり、農家のお嫁さんといえでも、田んぼに出ることはないそうだ。 今後の日本農業への展望、問題について よく言われることだが、後継者問題については農家と見合いをする女性はいないという話だった。後継者がいないからと言って、土地を売って何か始めようとしてもダメで、お話をうかがった二人のうち一人の方には後継者がいるが、もう一人の方の息子さんはサラリーマンをしていて、土地もいらないと言うそうだ。 農家になるにあたっての問題として、定年後の問題がある。年金などの保障を十分に受けることができないという不安は、現在農家を営んでいる、どんな人にもあるようだ。 |