【三養基郡上峰村三上地区】 歴史と異文化Aレポート 26組 岩崎研太 池松良平
AM10:00頃 碇健二様のお宅へ着いた。僕たちの到着を待っていたのか、相手方から声をかけてくれ、あっさりと話に入っていった。 三上地区の田ん中について聞いたのだが、戦前は三上地区一帯には高台があり、今の平野になったのは戦後のことだということだった。それても次々といろいろな話をしてくれたことに感謝している。 昭和15年三上地区に飛行場ができ、昭和19年に完成。しかしまもなく昭和20年に終戦を迎えた際、閉鎖された。昭和22年から三上地区一帯で畑作が始まった。しかし、畑作に加え、裏作を行ってはいたが思うような収入が入らないため、後に昭和42年から高台り高い位置から低い土地へ土を入れ、今のような平野にし、稲作を始めたということだった。その当時の土地の割り当てはそれ以前の土地割り当ては、それ以前に役場へ登録してあった面積、場所によって割り当てられたそうであるが、だいたい一丁一反程度だったとおっしゃっていた。 その当時、三上地区一帯で分配を受けた方々は軍人が少々に、引き上げ者、被災者であったということだ。 ここで本題となる田ん中のしこ名について話を聞いてはみたが、前に書いてあるように、三上地区は稲作農家としては新しい村で、戦前あった田ん中があり、その周りには墓、火葬場があったそうで、そのしこ名は「タカヤタイ」という名前だった。そして、その田ん中と墓の周りが高台になっており、その場所は桑畑だったそうだ。 しかしこの田ん中も昭和15年にはつぶれてしまい、前述のいきさつにより堤も消えていった。畑作を始めた当時は、その辺りで人骨などがでていたということである。 稲作の話をすると、昭和42年に始まった頃は、一反あたり5俵ほどであったが、現在農薬がよくなり8〜9俵ほどとれているそうである。また、ここで水利争いについて話をきいてみたところ、三上地区の水田は井戸水を使用しているということで、ほとんどないということであったし、土地の質について聞いてみると、良し悪しの差はないと話して下さった。 2時間ほど話を聞き、正午になったので退出しようと思ったが、碇さんが昼食を一緒にということだったので、もうしばらくいることにして、最近の話をしてもらった。 碇さんの話によると、最近決まった農業法の中で、農地拡大を目的とした法律ができたことに対して、その内容について話して下さった。その法律の内容というのが農地買い取りのために国がお金を最高2億円まで貸してくれるというものだ。碇さんの話によると、「その法律には様々な問題があるが、一番の難点は借りた場合に借りた額が億単位になるので、保証人がつかない。」ということだとおっしゃっていたし、また数年前の米の自由化については今の日本が他国との工業製品の輸出入で経済大国になったのだから仕方のないことだとおっしゃっていた。 また、米不足に対しては政府の対応がよくなかったなど、様々なことを話して下さった。 ここで昼食を頂き、しばらく黙々と食べていた。そうするとあちらから僕たちに話しかけてきて下さった。大学のことや碇さんの家のこと、そして自分の兄弟の話、子供の話を次々として下さった。その中で最近の農業について話をして下さったが、農家の現状としては収入が少ないため兼業農家にならざるを得ないことと、後継者がいないことが二つの大きな問題となっているということだった。 しかし、後者の後継者については最近の三上地区は都市化が進み多少はよくなったとのことだったが、収入が少ないのはどうしようもないとおっしゃっていた。 その他様々な襍談をしてpm1:00位になったので、おいとますることになった。その際、加茂地区の方を紹介されて行くことになった。碇さんはとても感じの良い方で、僕ら二人は運がよかったと思っている。 さて、加茂地区の方で大坪さんという方を紹介して下さったので、田ん中を歩いて行くことにした。しかし、大坪さんの家について話を聞こうとしたが、「しこ名については分からない」ということだったので、今度はそこで、鶴田さんという方を紹介してもらい、そこに行くことになったが、鶴田さんの家に言ってはみたが、そこには既に二人組が話を聞いていたため、僕らの調査は終わらざるを得なかった。 今回の聞き取り調査については碇さんのがとても優しい方でよかったと思うし、田ん中のしこ名は一つしか聞けなかったが、戦時中、戦後、最近の話を僕たちが分かり易いように語ってくれたため、とても有意義な時間が過ごせたと思っている。 |