【三養基郡上峰村前牟田地区】 歴史と異文化理解Aレポート 1AG95090■ 岸川光美 1AG95067■ 奥村一一三 平成7年7月9日(日)(地図は佐賀県立図書館所蔵) @しこ名について ・かわのうち(内八戸の上部) 川と川にはさまれていることからこう言われた。 ・ろくんぞ(内八戸の中部) 六つのお地蔵さんが祀られていることからこう言われた。 ・ごうしんさん(一本桜のしこ名) ・おおぼい(一本桜のF部) 昔、大きな堀があったことからこう言われた。 ・でーべた(一本榎木のしこ名) 土井の近くだったのでこう言われた。 ・みづまち(四本桜のしこ名) ・なかみぞ(三本桜のしこ名) 用水路が真ん中を通っていることからこう言われた。 ・よこでー(一本榎木と三本桜の上部) ・ちよいがまえ(二本桜の上部) ・西たかつつ(二本桜の右部) 二本桜と高筒を区別するために、二本桜のことを西たかつ ・東たかつつ(高筒のしこ名) つ、高筒のことを東たかつつとよばれた。 A用水路について 井樋はどれも土管または木製管。 棒を下に下げることにより、太い棒が上に上がり水が流れる。(てこの原理) B水利権について 今はどこからとかいうのは規定されていないが、昔は下米多地区の場合加茂井手という井柳川の上流の方の土地以下が水利権適用地区となっていた。 水争いは昭和になってからはないということだったが、それ以前はかなりあっていたようで、村で強い人がいて、その人が出て行くと必ず勝ったという人の話をしてくださいました。 C耕地について 戦前の肥料は水の水面に浮かんでいるゴミを肥料にしていたそうです。良い米はヨコデー(一本榎木と三本桜の上の部分)が一番で、だんだん下の部分になるにつれて質が悪くなるそうです。とれる量は比例しないということも言われました。 今日話をうかがったお二人 ・ 坂井光雄さん 大正15年生まれ 70才 ・ そのいとこの方 昭和2年生まれ 68才 お二人が中学生だったころ(昭和14年)の旱魃はひどいもので、水車(3段……二人がかりでやっていた)を使って旱魃をしのいでいたそうです。しかし、戦後になってもう水車を使うことはなくなり、その代わりポンプ(発動機)を使って旱魃をしのいでいるらしい。でも下米多地区はほとんど旱魃の被害を受けないらしい。というのは有明海が満潮のときに筑後川へ水が流れ込み、その残り水が井柳川へ流れ込むからである。 昭和12年筑後川の堤防が決壊し、六地蔵堰の辺りから人骨1体分が発見された。そして、そこは池になっている。 これからの日本の農業なついて坂井さんのお話 現在、坂井さんの家で一番の問題は後継者がいないということである。若い人たちは勤めに出て農業を受け継ぐことはないらしいです。それに農業の収入だけでは生活が苦しく、やはり若い人は働きに出てそれなりの収入を得る方がいらっしゃるそうです。だから坂井さんらがあと3〜4年は農業をやるそうだけど、その後のことはどうなるか分からないらしい。やっぱり後継者がいないことが一番の問題なんだなあと、改めて認識しました。 |