三養基郡上峰村切通地区】

切通区での現地調査のレポート

 1AG95009R 荒瀬奈緒

1AG95026N 伊東幸恵

 

79日、我々2人は上峰町切通区長の納富正人さん宅を訪問した。納富さんは多くの話をして下さった上に、義理の弟さんである鶴田正信さんが選挙の不在者投票のお仕事のために上峰町役場におられるからということで、役場にも連れて行って下さった。そこで、鶴田さんからもお話を聞くことができた。

お二人の話して下さったことについてまとめたみたいと思う。

 

@切通の成立について

 切通は1804年、約200年前にできた比較的新しい部落だそうである。山を切り開いてできた参勤交代の道沿いなのであるが、宿場ではなくだんごやうどんを売る店が元になっているらしい。

 

A切通の現在の地名やしこ名の解説

 大人(ウーシト)さんの足跡からは清水が出たそうだ。

 千年畑では発掘調査が行われ、多くの出土品が出たらしい。

 大町からも石斧が出土している。

 浦田というのはお宮のうらにあるからである。

 新墓と呼ぶのは他村の人々である。

 尼の浦には立派な金の観音像がある。

若宮大明神が祀られた理由

 参勤交代以前、橋がなく石を伝って川を渡っている場所があったのだが、そこで人が滑ってよく死んでしまうため、何かあるのではないかということで、若宮大明神を祀ったらしい。

 

B水利について

 切通には切通川があるため、ほり(クリーク)はないらしい。井戸もなく切通川の水をあらゆることに利用していたそうだ。やはり水利権争いは激しく、特に大町の辺りはひどかったらしい。また、六反角の井堰は六反角しか使えず、そのかわり六反角は船石、堤、切通が水利権を争い、切通の分は日の出から日の入りまでだったという。細かいことに井堰を直したりずらしたりするのにも、下流2箇所の許可が必要だったそうで、ほんの1m井堰をずらすことも大変だったそうだ。

 昨年の水不足は北原溜池と船石溜池の両方ともが涸れてしまい、切通川からポンプアップして約1km離れた所にまで持って行ったらしい。そのような技術のない昔なら、まず大町辺りは米が作れなかっただろうというお話であった。

 

C村の範囲について

 切通の境界は地図中に黄色い線で示してある(地図は佐賀県立図書館所蔵)。北原溜池の東にある土地と、納富さん宅は切通の飛び地になるらしい。納富さん宅は現在井手口にあるのだが、かつて切通の地区に住んでおられたため、現在の土地は戦後切通地区に入ったそうだ。

 もう一つの飛び地は昔からあったそうで、ここに住む人々は切通の祭りに参加したという。この人々は堤から来ていたのだが、税金(臨時割)は切通からもらっていた。

 切通の山は国有であったのだが、それが民間に払い下げられた時の記念碑が現在のグラウンドにある。この辺りのことをベンジャサンと呼んでいたが、それは弁財天のことであるらしい。

 

D村の耕地について

 浦田、ススダ、コーラが米の生産高は良かった。浦田には大地主がいたという。この辺りには出水があり旱魃しなかった。そして他の場所が4.5俵くらいの収穫だったとすると、7俵くらいの収穫があったらしい。逆に生産高の悪い田は、石原田、大町、ハスワン谷の辺りだそうで、溜池や水路がすぐに涸れてしまう。特に大町は10年に1度は全く米のとれない年があった。

 

E肥料や除草剤について

 使っていた肥料は油かす、豆かす、そしてシゲカスというイワシやニシンを乾燥させて臼でひいたものであった。戦前は除草剤などなく、ガンクサという田の草取り機を使っていた。戦後は2-4-2という除草剤を使ったらしい。虫除けに蚊取り線香などなかったので、ホテイというものを腰に下げて作業をした。ホテイというのは布に火をつけてその煙で虫を払うようになっている。

 

F今後の切通について

 現在切通には工場が進出してきており、田がなくなってきている。ドジク山、嘉七さん谷、石原中尾の辺りはすべて工場になってしまった。そのため、ていじめん溜池は用済みになり、今は下の方に小さな工場の調整池として姿を留めているだけだ。住宅も増え、昔は3,000人だった切通が今は8,000(人数はママ)。さらに増えていくだろうとのことだった。それに反比例して、20丁あった田は、現在56丁だと言われている。

 

 異常お二人のお話をまとめてみた。切通は小さな集落だが、境界は入り組んでいるらしく、たくさんのしこ名があったことに驚いた。しこ名の由来を知りたかったのだが、お二人ともご存じではないものが多く残念だった。しかし、事前にお手紙しか出していないのに、快く我々を迎えて下さり、様々なお話やお気遣いをして下さった納富さんと鶴田さんには、心から感謝してやまない。

(お話をして下さった方)

納富正人さん 昭和3417日 67

鶴田正信さん 昭和351O日 67



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