【三養基郡上峰村上米多地区】

 

歴史と異文化理解Aレポート

1AG95077 加治佐 百合子

1AG95062 岡村 暢子

 

話者:福島 辰夫さん(大正12年生74歳 区長)

福島 正夫さん(大正6年生80歳)

 

私たち2人は、上峰町上米多区に調査に行きました。上米多区には昔からいるご老人が2人しかいなく、あとに嫁いで来たりして地元の昔を知らない人ばかりでした。

訪ねたご老人の1人は区長さんの福島辰夫さんで大正12年生まれの74才で、70才まで働いていた方です。もう1人は、昨年まで老人会会長をなさっていた大正6年生まれ80才の福島正夫さんです。

 

@ しこ名の調査

しこ名については地図に示したとおりです。

場所によってはしこ名と行政上の名前とが同じところがあり、またしこ名がないところがありました。田んぼにはたいていしこ名がありましたが、あまり覚えていらっしゃらなくて、しこ名の数があまりありませんでした。

地図で、黒字はあざなで赤字がしこ名です。特徴的なのに“けいばじょう”とありますが、昔自分たちの馬を使って競馬をしていたそうです。

二本松=いずざき

四本松=くろぼし

五本松=まつばら

五本杉=西の谷

一本柳=みいだし

※昔からの呼び名ではないが、本州ダンボール工場をパッケージ、三信工業をさんしんと呼んでいた。

 

A 水利のあり方

用水源は筑紫山脈で、曽根川、西の谷川へ流れ込んでおり、この二つの川の水を用水として使用している。曽根川と西の谷川は井柳川で合流し、有明海へつながっている。

水争いが起こることはなく、みんなで仲良く分け合っている。水は塩分を含んでいないので、特別処理することなくそのまま使用している。

川を水が流れているところという意味で、ほりを水が溜まっているところという意味というように、川とほりを区別して呼んでいる。

去年の水対策は特にしなかった。水はたっぷりあったので、全然困らなかった。

 

B 村の範囲

 昔は長崎県肥前の国三根郡坊所村だった。昔は上米多と下米多区が同じ部落だった。家の数が倍になり、管理が行き届かなくなったので分けるようになった。上米多と下米多の境は複雑で分からない。昔は5〜6軒しか家がなかった。

 村の耕地は平均的で、特に差はない。

 

C 雑談

 昔の人は、田んぼにしこ名があるように名前にもしこ名に似たあだなを持っていた。手紙があだなで書かれていてもきちんと相手に届いていた。結婚して姑と名前が同じだったら、呼び名として新しい名前を付けていた。

 佐賀の方言は“けんかをうっているよう”だとか“早口”であると言っていた。若い頃、東京に行った時、佐賀弁では言葉が通じず、まず日本語(=標準語)を勉強することが最初だった。

 日本の法律はどんなことに対しても厳しすぎと入っていた。また、どんなことに対しても印鑑が必要なのでとても不便だから、アメリカのように拇印やサインでするようにすべきだと言っていた。

 昔は曽根のあたりまで有明海だったので、そこに今建っている家の土地を掘ったら、かきの貝殻が出て来るそうだ。

 昭和28年頃大きな洪水があって、水が上米多区の近くまで来たが、上米多区は大丈夫だった。



戻る