三養基郡上峰村上坊所地区】

歴史と異文化Aレポート

平成7711日記

S1-27 1AG95031■ 今村真二

1AG95044■ 梅原 健

 

 我々は上坊所の生産組合長の高島章さん宅を訪問した。高島さんは当日、この辺りの古老である高島終盛さん、深町益實さん(二人とも大正5年生まれ)のお二方を呼んで下さった。以下はそのお二方の話をもとに書いたものである。

 

1 しこ名について(田ん中)

 しこ名についての名前、位置は提出した用紙のとおりである。線の枠に赤で書いている (地図省略:入力者) 。このうちのいくつかはその由来まで知っていたので以下に記す。

・船橋

 昔はこの辺りまで海水が来ていたそうだ。だからここには海からの船のための桟橋があった。そのため船橋とのしこ名が付いた。

・城口

 昔この辺りに小さい城があったそうだ。坊所城。その城の出入口付近であったため、城口と言われていたそうだ。

・権現堂

 この辺りには権現様をまつっていたものがあったそうだ。そのため権現堂と言われていたそうだ。

・一本松

 これは、この辺りになぜかでっかい松の木が一本ぽつんとあったそうだ。なお、一本松の近くに池があり、昔は子どもたちで魚を釣ったり泳いだりしていたそうだ。

・じゅういち

 おそらく十一(じゅういち)だと思われるが、今回聞いた方はよく知らなかった。

このお二方がおっしゃるにはこの辺りのしこ名をたくさん知っていた方は数年前に亡くなってしまったそうだ。直接は聞けなかったが話題が過去形であり、何年か前に……と言っていた。そのため、いくつかの場所について分からないしこ名があったことを残念に思った。

 

水について

 この上坊所というところき外記(げき)の堤(地図の左上)という溜池があるため、それほど水には困らなかったそうだ。この外記の堤は大字坊所と呼ばれる井手口、下津毛、上坊所、下坊所の4つの部落で管理しているそうだ。

 この外記の堤は昔は南の市武という部落までの農業用水に使われていたそうだ。外にも上坊所の釈迦面では流れている川の水を使っていたそうだ。しかし、今は技術が進み、他の部落はボウリングして地下水を汲み上げているので、この堤の水は上坊所が使用しているそうだ。あと、じゅういちと船橋の間の水路はなかと呼ばれていたそうだ。

 昨年の水不足の折には上坊所は外記の堤があるということで、そこまでひどくはなかったそうだ。しかし、他の所は住宅から排水される水とかも使っていたそうだ。他の所ではどうしたのか? それは満潮時に海の水がのぼってくる。それに応じて下流域の川の水も上がってくるので、その水を使っていたそうだ。しかし、やはりその関係で塩害が発生したそうだ。

 

3 その他

 我々は日頃疑問に思っていたことを言ってみた。

Q 米は一反でどれくらいとれたのですか?

A 昔は豊作で8俵ぐらい。今では10俵ぐらいとれる。でもこの辺りは「ヒノヒカリ」という品種を作っていて、その米だったら豊作で9俵ぐらいかな。

Q 戦時中やその直後の食糧事情はどうでしたか?

A 南京米という米が主流になったときがあった。日本のもののように丸いのではなく細い米。いわゆるジャポニカ米ではなくインディカ米のことだけど、おいしくなかったね、あれは。

Q それでは輸入されている現在の米についてはどう思いますか?

A 輸入はもうやめてもらいたいね。日本人は日本で作った米を食べるからと言って断ってもらいたいね。そうしないと日本の農業はつぶれるよ。

Q 米はどうやったらおいしくできるんですか?

A 基本的にたくさんとれる米よりあまりとれない米の方がおいしいね。そして北陸の新潟の米がなぜおいしいのかというと、昼と夜の気温差が大きいんだよね。だからあの辺りは米がおいしい。

Q よくCMで農作業の機械とかものを見ているんですけど、機械はどのようにして購入したり管理したりしているのですか?

A よくCMで見る田植機や稲刈り機。あんなのは一台100万円はくだらないよ。それに一年のうちに使うのは、12日だろう。とてもじゃないけれど個人じゃ買えないね。だから農業機械組合というところで修理とかはやっているよ。

Qではよく後継者不足のことが話題になっていますけれど、やはり事情は厳しいのですか?

A厳しいよ。この辺りでは専業農家は6070代の人ばかり。50代ともなると食べていけないから兼業農家がほとんどだね。だいたい米を買い取ってくれる値段はあまり変わっていないのに、肥料とか他の日用品とかの値段は上がっていく。だから若い人も来ないんだよね。

 

 以上のように質問した。やはり今の農業は続けられるかかなり深刻のようだ。我々が毎日食べていく米。この米が日本のものでなくなったら……。このままでは本当にそのようなことがあり得るのではないだろうか。

 今回しこ名を聞き、昔のことを記録に残すことが目的だったはずなのに、私としてはそのことより、むしろ、実際に農家の方に会い実情を知り、農学部の一員としてその事実を受け止め、考えるということが大切であったように思えた。



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