【三養基郡上峰村上江迎地区】 歴史と異文化Aレポート 平成7年7月9日 S1-31組 1AG95247■ 宗友明日香 暑い日差しの中で私たちは現地調査に行った。田んぼの中を歩いていって田んぼにカニやタニシがいるのを見た。タニシの卵はショッキングピンクで田んぼの中で異様に目立っていた。農家の方々の話をじかに聞けて、非常にためになったと思う。 碇地区のしこ名には以下のようなものがあった。 しこ名 かめんくう(亀の甲羅のような方をしていたことに由来するのではないか。) はくだ なかんつぼ いでがまち びわだ たっちょう りゅうげ(柳の下という言葉に由来するのではないか。) 堀の名前 たっちょうぼい……八枚地区にあった。 ながぼい ひしぼい はたぼい ひょうたんぼい(瓢箪のような形をしていたことに由来する) また、碇地区の碇という名前は、昔このあたりに船が来て碇を下ろしていたことに由来するという。船は天草から海を通って筑後川を上ってさつまいも(唐いもとも言う)などを運んできたという。碇地区は昔、周りをすべて堀に囲まれていたそうだ。 碇と江迎の間に水門がある。その水門は上下2枚あり、用途によって開き方を使い分けている。碇と江迎は上流からの川の水と、下流からのアオを互いに分け合って使っている。
昔から水争いはなく、昔は中村、江迎、碇を1区画としていた。河川工事があり、それ以前は1m50cm以上あった干満差がなくなった。他の所より先に水の設備が整ったため、土地改良組合に入らず独自にしている。 昨年の渇水時、稲作には特に影響がなかったそうだ。切通川から堀に稲の影響がないくらいの塩分が逆流してきた。大雨で中村地区に地下下(原文ママ)浸水があった。 昔は水を引くときに上流からの川の水とアオを利用した。満ちているときに水は取れるだけ取っておいた。満潮時、川から逆流する潮が真水を押し上げ、それをさらにポンプで汲み上げた。昔は三段の足踏みだった。ポンプにモーターが使われ出したのは大正末であった。アオはクリークに貯めていた。 昭和終戦後期は、堀の水を飲料水としていた。石やしょろうや木炭で濾過した水を飲んでいた。また、燃料節約のために4.5軒で共同風呂を使っていた。 農業の機械化は昭和初期(8〜9年)に個人で発動機が入った。今、農業機械は共同で使用している。共同利用の利点として高い機械をお金を出し合って買えるが、不利な点として自分の思い通りのものがつくれなかったり、時期をずらさなければならなかったりする点が挙げられる。 田んぼの利用法や工夫点として、昔、田んぼより一段下に開きを作ってゴミを揚げると、ヘドロがたまらず、それを肥料として利用できるという工夫があった。圃場整備の時になくなった。 またカントリーエレベーターにあわせて精製能力に限りがあるので、品種をずらして田んぼを利用している。小麦〜ビール麦〜肥料麦〜ヒノヒカリ〜レイホウ〜餅米)。昔の田んぼは乾田であった。 昭和49〜50年にこの辺りは国の圃場整備が行われた。国が全国で圃場整備を始めたばかりの頃で、まだ経験が浅く、肥えた土を使って土手を作ってしまったりして、その後数年間は収量が落ち込み、農家の方々は御苦労なさったようだ。 現在は米だけでは生計が立てられないので、この辺りでは他にも様々な作物を作っている。以前はい草、畳表を作っていたが、機械化で面積不足になり、20年くらい作ったがやめた。今はイチゴを作っている。種類はトヨノカで出荷時期は11月〜5月である。ビニールハウスで栽培している。 農家の人々の多くは兼業農家だった。一年間の圃場整備を機に兼業農家になった方が多かったようだ。昨年は異状気象の水不足などがあり、また価格面や生産コスト面で農家を取り巻く環境は大変厳しい。区長さんの話でも大変だとおっしゃっていた。また、会合などが多くあり、地域一帯の農家でとても協力し合っているように見えた。 今回の調査で少し農業を身近に感じるようになった。また、農業の歴史も少し勉強できた。それが今回の私の収穫である。 お話を伺った方 碇地区区長 高島清治さん 江越地区区長さん 江越春夫さん |