三養基郡上峰村井手口地区】

歴史と異文化理解Aレポート

1AG95015■  猪飼貴子

1AG95028 井上めぐみ

 

1 現地調査 聞き取りの方法

 井手口公民館に区長をはじめとして5人の方に集まってもらい、襍談を交えながら質疑応答のかたちで行った。集まって頂いた方々は以下の5名である。

 区長 白井卓一氏(昭和2年生まれ)

              白井辰男氏(大正7年生まれ)

              佐野福次氏(昭和2年生まれ)

              藤野禎一氏(昭和4年生まれ)

              江頭盛之氏(昭和5年生まれ)

 

2 内容

1)      地区の範囲の確認

2)      しこ名を聞く。場所、発音(アクセント)の確認

3)      堀、水路の名前について

4)      水利のあり方について

5)      去年の水不足における対策について

6)      各水田の質

7)      今後の農業について

以上、マニュアルに基づいて質問を進めた。

 

3 成果(2についての質問の結果)

1) 地区の範囲(地図上では緑の線) (地図省略:入力者)

 北 国道34号線

東 切通川沿い(但し、途中には昔の川の流れに沿っている所がある)

南 水田沿い

西 地図の北端

地区の北東部には地区としての井手口があるが、切通地区の人が耕作している水田がある。

 

2) しこ名は地図上赤で記す。

・おんぼやしき

・貝の上[かいのうえ](中ノ尾[なかのお])……両方とも使われていた。

・きんど

・三反オサ[さんだんおさ]……田んぼが三反あったから。

・石官塚[せっかんづか]……塚があったらしい。

・谷田[たにだ]……丘にはさまれた谷地形にある水田だから。

現在は井手口桜ヶ丘団地である。

・中原[なかばる]……現在の中原町に含まれている。

・中ノ角[なかんかく]

・西脇[にしわき]

・八反角[はったんかく]

・ひのきやま……昔ひのきがあったらしい。

・古川[ふるかわ]……以前の川の流れ(地図上太い青の線)に沿ってあった水田。

・堀イ田[ほいだ]

・ほい町[ほいまち]

・めたのやま[めたんやま]

・矢いの路[やいのじ]

・やこつか……塚があった。

・やぼ田[やぼた]……やぼ塚という塚があった。

・山崎[やまさき]

・ゆうずばたけ

 計20

 

3) 水路については特に名前はなかった。

 堀については「三角ぼり[さんかくぼい]と、「しみずぼり」[しみずぼい]の二つがあった。

 

4) 水は切通川(地図の北)から引いており、単独の水利である。

 非灌漑時期の水路の掃除は水を引き始める。6月中旬頃に行うが、その時のゴミは肥料としては利用されていない。

 

5) 水は足りていたので特に対策をとる必要はなかった。1415年前の水不足の際には井戸を掘ったりポンプで水を汲み上げたりしていた。

 

6) この地区では裏作は行われていなかった。おんぼやしき、きんど、八反角、古川は良田であり、戦前は360kg/反、現在は520kg/反の収穫である。

 それに対して堀い田は砂を多く含んでいるため戦前は300kg/反、現在は480kg/反の収穫である。全体的にこの地区は水に恵まれているので良田が多い。

 また、戦前は中国からの大豆カスが主に肥料として使用されており、それを各家でリン酸カリなどと混ぜて使っていた。家畜(主に牛)の糞=堆肥も昭和30年代ぐらいまで使われていた。

 この地区は圃場整備は行われていなかった。

 

7) 今後の農業についてであるが、未来は明るくないそうである。

まず後継者がいないことが一番の問題であった。先祖が土地を開発してきたおかげで今の生活ができるようになったのに、自分たちの代でそれを終わらせてしまうかもしれないという恐れがあることに不安を抱いておられた。もし後継者がいなければ水田は廃れてしまうだけだ。そうすれば米が不足することになり、去年のように外国から安い米を輸入することになるだろうけれども、外国産米はおいしくないという理由などで消費者は日本米を求めることが予想される。しかし、米の消費者が減少している現状では供給することが難しい。

江頭氏は「自分たちは年はとっていくだけなので、自分たちの食べる分は作っていくが、人の分まではめんどうみきれない」と言われた。もしこうてう風になったなら、私たちは米を輸入に頼ることになるだろうから、去年のように消費者は輸入米に対して不満は言えないだろう。だから消費者も農家の人たちと一緒になって考えて欲しいと言われていた。

このような問題を解決するための手段として後継者を増やしていくという手段が考えられるが、今の若い人たちに無理に農業をやりなさいとは言えないと言われた。大変な重労働であるが、休みは週休二日でもない。それなのに自分の手取りはそれほど多くないとも言う。農業の仕事に今の若い人たちはついてこないだろうということだった。

私たちも農学部ではあるが直接農業をすることはないと思われる。このような直接農業はしないが指導員や?究員などの人間は、今増えているらしい。彼らは農業をやりなさいと勧められるばかりで他の手段をあまり知ろうとしないので、もっと農家の人と一緒になって今後の農業をみつめていきたいとも言われた。

現状では農業の未来に明るい希望は持てないので、日本の農業の滅亡をしのびながら農業をやっていくという言葉を最後に聞いて、非常に寂しく思った。

 これらのことは私たちが考えていかなければならない課題の一つであり、環境保護にも関係する重要な問題であることを再認識させられた。

 

8)      以上でマニュアルに基づく質問は終了したが白井辰男氏が是非先生に伝えてくれと言われたのでここに記しておきます。

9)       井手口地区は元々「井出口」と書き記されてきたにもかかわらず、昭和になっていつの間にか「出」が「手」に変わってしまっている。現在では公文書にも「手」の文字が使われていて、昔からの「出」は消えつつある。

   白井氏はこのことを大変残念に思っておられ、先生の研究の際には「出」の文字を使って欲しいとのことでした。明治時代、まだ「出」の文字が使われていた時代の地図を預かってきたので同封しておきます。

 

4 感想

 今回佐賀を訪れて教室で受ける講義とはまたひと味違った経験ができた。話を聞いていると、やはり、これからの社会を担っていくのは私たちであり、そのように期待されていると改めて認識した。その期待を裏切らないように勉学に励んでいきたいと思う。



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