【三養基郡上峰村東前牟田地区】 レポート S1-27 1AG95082■ 角田志保 1AG96091■ 城戸明子 始めに東前牟田区長の藤戸一美さん(70才代後半)に、その後鶴田治夫さん(70才代後半)と、その奥様にお話をうかがった。結果は以下のとおり。 @しこ名について(具体的には地図に記載) (地図は佐賀県立図書館所蔵) はじめに伺った藤戸さんはもともと坊所新村のご出身で、昔は「でさく」として東前牟田に来ていらっしゃった。そのためしこ名は地名で呼ぶことが多かった。藤戸さんのお宅あたりの集落(東前牟田の中でも東側、二俣、加茂より)の方は、もとはほとんどが出作で、戦前から戦後にかけて、前牟田に移り住んだ人だから、東前牟田のことはあまり知らないのではないかということだった。そこで、西の方の集落の鶴田さんを訪問した。 鶴田さんはもともと東前牟田の方で、いろいろ教えてくださった。しこ名は田んぼの一区画ではなく、もう少し広い範囲(5〜10区画)を一つの名前で呼んでいたものもあったようだ。地名の外、地主の名前で呼んでいたものもあった。 A水利について 普段は坊所にある堤から引水していた。 ・いくつかの村が共有していたため、井手ごとに何尺の杭を何本打つといった決まりがあった。 ・井手の監視は井手番がしていた。井手番は責任の問われる仕事なので、割と皆から信頼があり、村のことをよく知っているリーダー格の人が交代で行っていた。手当はその井手ごとに井手の大きさ、すなわちその井手から引水する田の面積に比例して、その田の持ち主が米や金で支払っていた。 ・慣行を破ると村間で協議会が行われたが、それでも決着がつかない場合は、怪我をするような争いさえもあったとか。水争いの相手はたいてい上流の村だったそうだが、具体的な村名は教えてくれなかった。 旱魃の時期には筑後川からの淡水灌漑に頼っていた。 ・明治の終わりから大正にかけて行われていた。 ・大潮の日に江見手のエゴ(水門)から。 ・区長が音頭をとり、「さくおとこ」が一つの水車に二人ずついて、田の大きさによって水車2〜3台で引水していた。さくおとことしては、「くちんすぎ」の子どもたちが働いていたので、手当は食事だった。 非灌漑時期には「すいどうさらい」(堀のゴミとり)を行って、ゴミは肥料にしていた。 1994年の旱魃は機械設備で整っているおかげで、水の出し入れの調節がうまくいったので、何の問題もなかったそうだ。昔だったら大変だったろうとおっしゃっていた。 B村の耕地について 平均一反で5〜6俵とれていて、村内では田による差はあまりなかったようだ。全体的に土が粘土なので裏作はあまりできなかった。麦、菜種を少しと、ソラマメやレンゲソウを作っていた。ソラマメやレンゲソウは肥料にしていた。 C圃場整備の良し悪しについて 「圃場整備があって良かったと思われますか?」と尋ねると、治夫さんも奥さんも声をそろえて「そりゃあよかったよ。」とおっしゃっていた。機械のためにお金がかかるようになったから、若い人は会社に働きに行かねばならなくなったから、長生きできるからね、ということだ。 今回主にお二人の方にお話しをうかがったのだが、お二人とも細かいことはあまり覚えていらっしゃらなかった。それに、他の人を紹介して欲しいと言うと80才から90才の人で元気な人は自分たちが一番年上だと言われた。それで、年月が経つにつれこのような調査は難しくなっていくのだなあと思い、今、この調査をする意味をしみじみ感じた。 |