三養基郡上峰村上江迎地区】

歴史と異文化Aレポート

平成779日記

S1-29 1AG95139■  鈴木純子

1AG95143■ 竹中佳夏

 1AG95150 竹中美由紀

 

1 はじめに

 私たちは上峰町江迎のしこ名などについて区長中山十四美さん(73歳)にうかがいました。中山さんの知り合いの方にも江迎のしこ名などについてご存じの方がおられたようですが、現在入院中ということで以下の内容にとどまりました。

 

2 国による圃場整備前

 田のしこ名は地域としての名はあるが、一つの家の田があちこちへ点在しているため、どこどこ(地域の名)のどの大きさ(例、なえしろの1たん)というように呼んでいた。

 地域の名

  北:なえしろ、きょうとだ、まつやま、北浦(きたんうら)

  南:しもんなかよい、くろつんぼ、池ん中のたんぼ

  東:きょうでんまがり

 *まつやまの名の由来は、その辺りに松がたくさんあったからである。

 昔の田は畦に即して作ったため、高さも大きさもまちまちで、大きさも小さいものがほとんどであった。

 橋は堀が細く曲がっていたためほとんどなかった。しこ名も「地域の名」+橋というものがほとんどである。その他としては中橋というのがあり、これはこの橋が江迎と九丁分の真ん中にあることから付いたそうである。

 また堀は「池ん中」という大きなものがあり、冬に魚をとり、その魚を薫製やひぼかしなどにして保存食として1年中食べていたそうである。

 アオは江迎でも下()の地域で利用されていたという。上()の地域は山から清水を利用していた。水害は昔よくあり、一面水浸しということもあったそうだ。アオの塩分で被害を受けることはほとんどないということであるが、昨年は例外で塩分濃度が増し、収穫量が減ったそうだ。

 井樋は昔は経験豊かな人が塩梅を見計らって開閉をしていたのだが、それでも難しく水喧嘩もよくあっていたらしい。井樋の数が少なかったため、しこ名は○○家の向こうの井樋というふうに呼んでいた。

 

3 国による圃場整備後

 今から20年くらい前から20町ずつ位を目安に土をすべてならし、昔の田の高低差は全くなくなった。江迎も1015年前に現在のようになった。トレイラーによる多量の木の伐採なども伴ったため、山の方から自然に湧いていた清水が少しずつ出るのではなく、一気に町の低い方へ流れてくる。



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