三養基郡上峰村坊所新村地区】

歴史と異文化理解Aレポート

S1-27 1AG95050 大石 真伸

1AG95073 小浜佳奈子

 

坊所新村

 昔のまま13戸の家

 明治生まれの方は女性3人のみ

 

調査結果

20年前はほとんどの家に、豚、乳牛がおり、酪農業をしていた。

・家畜の屎尿を堆肥として田に使用。人を雇い、手で撒布。

・圃場整備の時に堆肥の処分の場がなくなり、酪農業をやめた。

・家畜のいた小屋は、今は耕耘機などの機械入れ。

 

・昔の田は一つ一つが狭かった。

・昭和49年〜51年頃、まとめられ広さが45倍になった。

・「しこ名」と言っても分かっていただけなかった。→「一本谷」など答えられた。

・村人の中で通じる田の名は明治後抹消された。

・村の家々の周辺の田に名はなかった。

     田の区域名は今でも呼んでいる。

まつお

こもいけ

いっとどこ

かじのめ

東じぇんすう

西じぇんすう

こけら

・田の良、悪質あり。

・戦前よい時で11俵〜12俵とれた。

・稲の後には小麦、ビール麦を蒔く。

・減反の田ん中に今から大豆を蒔く。

・一昨年米不足。

・今年は低温のため、710日生育が遅い。→今のままだと不作。

 

井樋

・昔、水の権利あり。

・板を立てて水をためていた。

・他の部落には水をやらないつもりで部落が管理。

・水門の所は昔港だった。

・昔は川幅が広かった。

 

灌水機

・水をためる所。

・川からとっている。配管されていて蛇口をゆるめれば水が出る。

・レンガを積み上げて45ヶ所水上げ。

・田の枕にはわせ、モーターで汲み上げる。

・水不足関係なし。

・毎日有明海から潮が上がってくるのが心配。

・筑後川から引く水を部落で買うと困る。

・上流にデパートが出来るのに反対した。汚水が来ている。

 

収入(稲で)

・麦5俵   たんと45千〜5万。

・収穫したものは農協経営の「カントリー」に持って行く。(出荷)

・自分の家で消費する分はカントリーに予約し、年2回に分けて配布される。

・後継者がいない。

・部落の田を34人共同でつくるようになるだろう。

・ほとんど兼業、専業は今二人。

・機械、今までは貸してくれていたのに、今はトラクターを個人で入れたので、刈り取りは共同だ。苦しくなった。

・コンバインは2台あるが810年で駄目になる。1台660万円ほどする。高い。

・家は60年建っていたので昨年建て替えた。

・昔、部落の婦人会などが炊き出しをし、運動会をした。今はほとんどない。

・「こもり」年3回。弁当持ち寄りで1軒の家に皆集まる。

・村祭り

 3年前まで赤飯を炊いていた。朝はイワシ、夜はチクワ、テンプラ、刺身(昔はくじら)、お酒。

・「めたふりゅう」 大字前牟田の祭りに参加する。

 二つに分かれて2年に1回。今でも10月半ばにやる。県の無形文化財。

楽器 

大太鼓、

あと太鼓、

かね、

ふえ、

もりゃし、

ささら→竹をつないだ楽器

・子どもも法被(自前)を着て、「べっちん」という名前入りを下げ、瓢箪を下げ「しゃのけ」というきれいな紙を棒にまいたものを持つ。

 

・大人は「てんつく」という大きな帽子か冠のようなものを被る。

7080人で神社を廻る。

     1日目……おくだり。2日目……おのぼり。

 

お話をして下さった方

 平井正敏さん 49才 昭和20年生まれ

 ずっと坊所新村に住んでいらっしゃって、方言がかなりある方。年配の方がいらっしゃらなくて世話をして下さった。子どもさんはとてもサッカーがうまく、佐賀県選抜。韓国にもサッカー遠征した。育成会長さんもしていらっしゃった。わざわざ役場から土地台帳を借りて下さった。

 

感想

 年配の方ではなかったが、とても詳しく知られており、大変親切にして下さった。帰りも村の出口まで送って下さり、温かさを感じた。

 子どもさんは塾に行ったりするようで、後は継いでくれるのか分からないとおっしゃっていた。長閑なところで、調査が終わった後、六田川でカニとりをして、久々に自然に親しんだ。



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