【三養基郡中原町蓑原、香田地区】 レポート 1SC94237 寺崎 智子 1SC94244 野田百合子 1SC94251 松下弥生 聞き取りの方法 田のしこ名などその他圃場整備以前の状況を記憶している方に直接質問し、その都度メモを取った。同時にテープレコーダーでそれらのやり取りを録音した。同封のテープを参照。 聞き取りの内容 Q1 田のしこ名 場所は地図に記入。 (地図は佐賀県立図書館所蔵) ・蓑原区 五反田(ごただ) 六反田いで(ろくだいで) 小溝いで(こみぞいで) うえまつ おにつか のだ 曲金(まがりかね) こうちえり ・香田区 後田(うしろだ) 冠名(かんめい) Q2 村の水利 ・蓑原区 五反田→山に隣接しているため、小さな水路を作って水を引いた。そのため、すぐ水不足になり易い地域であった。 その他の田→一の瀬から水を引いた。 ・香田区 目明谷より北西地域→水源となる塘(つつみ。ダムのこと)が無いため、水不足になり易い。 その他の田→内香田上堤、内香田下堤、外香田堤、目明谷堤、村中堤、養魚池を水源として水を引いた。 Q3 村の耕地 ・蓑原区 五反田・小溝いで→湿田 その他の田→乾田 うえまつ、おにつか、のだ、曲金は昭和初期までは桑畑だった。 Q4 かんばつ ・蓑原区 昨年の収穫量は12俵だったが、1994年のかんばつの時は、収穫量は7俵まで落ち込んだ。しかし、このかんばつが30年前に起こっていれば、収穫量は恐らく0俵であったと考えられる。 *30年前の0俵に対し、同じ干ばつが起こっても7俵の収穫ができた理由は、薬、農薬の進歩、農協の指導があった為である。 雑談 ・香田区 昔、参勤交代が行われていた頃の時代には水争いが激しく、勝手に自分の田畑に水を引いたりした人たちには刑罰までくだされていたそうです。 また、その頃は、川の水は田畑に引くためだけでなく、生活用水として使われていたため、大変貴重とされていて、おしめを洗う場所なども決められていたそうです。 以上のことより、水源は村の人たちにとって大変大切なものであり、そのためその水源をめぐる争いがあったというのもうなずける。 ・蓑原区 昔に比べて最近は田が少なくなってきており、専業農家を営む人々も減ってきているらしい。 |