【三養基郡中原町上地、高柳地区】 中世の村と人々レポート SU-17 1TE94872■ 三宅周吾 1TE94867■ 藤波 収 1TE94829■ 白石亮介 1TE94857■ 中田聖士 1 上地地区 ・〜本谷という所は全て上地区なのであるが、昔は上半分を上地、下半分の地区を藤崎といって二つの部落に分かれていた。従って、二つの地区では同じところでも呼び方が違ってくる。我々が訪ねたのは上地区長であるが、話によると「前田」と呼ばれるあたりが多少変わっているらしい。藤崎では部落の外にあるため「後田」と呼ぶそうだ。 ・しこ名の由来、区分けについて しこ名の由来、区分けについて尋ねたところ、区分けは整備があったために以前の形がなくなり、だいだいそこであっただろう場所を習慣としてそのしこ名で呼んでいるそうである。 しこ名の由来については、神社の前なら「宮の前」。墓の前なら「墓の前」程度なら分かるそうだが、なにしろ何百年前から語り継がれてきたので、いつの間にかというより、初めからそう呼んでいたため、定かではないとのことである。 2 高柳地区 ・〜本桜という名称のところが高柳である。 ・しこ名の由来、区分けについて 我々が尋ねたのは高柳区長であるが、区長の話によると、だいたい古墳があったところには、「〜塚」というように塚の文字がつくらしい。区長が言うには年をとっているといっても、何百年前に決まった名称なのでそこまで古いことは分からないらしく、町史の内容以上のことは分からないそうである。そういうことなので、町史を拝借して調べてみちが、しこ名についての記載はほとんどなく、結局、昔の名称、つまりしこ名だろうと思われるものを区長さんの記憶にたよって、現在分かるだけのものを教えてもらった。 反省 今回佐賀県上地区、高柳地区の調査に行ったのだが、その地区の区長さんにさんざんお世話になったにも関わらず、思うような成果が挙げられなかった。 理由の一つに高柳区長さんが述べたようなこともあると思うが、最大の理由はやはり我々の下準備不足であっただろう。現地に行けば何とかなるという甘い考えをもっていたために、質問の内容が要領を得ていなく、区長さんには本当に大変な迷惑をかけたことだと思う。それだけ迷惑をかけたにも関わらず、できあがったレポートがこの様なお粗末なものだったことには、非常に申訳のない気がする。しかし、ぶしつけな訪問にも大変温かく対応してくれた区長さんには本当に感謝している。 |