【三養基郡中原町石井、藤倉地区】 中世の村と人々レポート S2-24 1SC94247■ 平川善規 S2-24 1SC94258■ 宮下寛治 S2-24 1SC94259■ 元山善一 【石井地区】聞き取りの方法 一人が前もらったマニュアルに沿った質問をし、一人がそれをメモした。 内容 しこ名 こまた かみさた にほんはぜ がらん(お寺の跡) みなみうら じょうじまたに(谷の名) なかしまのうら(なかしまは町の名) さんぞうつか おみやのまえ(天満宮) こうばるざか(川原) じぞうさんのにき(おじぞうさんの近く) はちのがく ふじいさんだ(フジイさんの田んぼ) こうらだ にしだ *位置は地図参照 水路 寒水川からの引水。 6月中旬から10月初旬に使う。 管理は区長、近くの人が使う。 井樋番の手当はなし。 去年の特別な水対策 石井地区は水がとても豊富であるが、去年は水が少なく水圧がないのでポンプを付けてモーターで汲み上げたそうだ。 もし30年前だったら 川を堰き止めてみんなで汲み上げる。 村の範囲 今と変わっていない。 村共有の山林 ・天満宮の所。 ・こまた、かみさだの東→今は切り開いてほとんど畑や道路になっている。 米のよくとれる所……お宮の前、なかしまのうら(乾田) 米のとれにくい所……じょうじまたたに(湿田) 裏作はほとんどどこでもでき、麦、菜種をあいた田で栽培していた。 戦前良い田では1反当たり8俵、悪い田では6俵とれた。現在は化学肥料により品種によるが昔より半俵ぐらい多くとれる。 戦前、肥料は家畜を多くかっており、その糞を堆肥として使っていた。 日本の農業の展望 中原村は後継者が少なく、お年寄りが以前として新人のままで若い人はお勤めに出ており、農業はもうやっていけない。また、道を広くし田んぼが減っている。 お話をして下さった方 吉村 正人さん 大正15年生まれ 成果 こまた かみさた にほんはぜ がらん(お寺の跡) みなみうら じょうじまたに(谷の名) なかしまのうら(なかしまは町の名) さんぞうつか おみやのまえ(天満宮) こうばるざか(川原) じぞうさんのにき(おじぞうさんの近く) はちのがく ふじいさんだ(フジイさんの田んぼ) こうらだ にしだ 以上15個のしこ名を知ることができた。 【藤倉地区】聞き取りの方法 石井地区のときと同様。 内容 しこ名 はかのまえ かんのんさんのまえ かんのんさんのひがし うらだ べんじゃさんのまえ(べんじゃさん:厳島神社) まるやま かにやつか まえだ ひやつか *位置は地図参照 水路 主に権現塘からの引水、権現塘は他の村と共有。 近くのため池は水が少ない。 権現塘の水が少なくなると新塘から権現塘へと水を送るが、年3回までと決められている。 6月中旬から9月いっぱい使う。 近くの田をつくる人が勝手に使用。 去年の特別な対策 他のため池から水を引っ張ってきた。みんなで交替で水を使った。 30年前だったら 去年と同じことをする。 村の範囲 現在と同じ。 共有の山林 権現山 cf:白虎谷は他の2村と共有。 米のよくとれる所……まえだ、ひやつか。 米のとれにくい所……まるやま。現在は整備されほとんど差がない。 裏作はどこでもでき、麦、菜種(菜種は現在は栽培されていない)を栽培していた。 戦前、良い田では1反当たり10俵、悪い田では8俵とれた。 戦前、肥料窒素肥料、リン酸、カリ肥料をまぜたものを肥料として使っていた。戦後はまぜたものが販売されている。 村の移り変わり 田が整備され、小さく入り組んだものから、大きく四角いものに変わった。 農業の展望 後継者がいなくなってきている。 お話をしてくださった方 大塚伍一さん 大正4年生まれ 成果 はかのまえ かんのんさんのまえ かんのんさんのひがし うらだ べんじゃさんのまえ(べんじゃさん:厳島神社) まるやま かにやつか まえだ ひやつか 感想 お話をして下さった方、親切に道を教えてくださった方などいい方ばかりで、本当に感謝しています。また雨の日で大変だったけれども、ある程度の成果は挙げられたのではないかと思います。 |