【三養基郡中原町姫方、中原地区】 中世の村と人々レポート 1SC94239 中島裕美 1SC94248 廣村 淳 1SC94257 宮崎則幸 僕たち3人は7月11日火曜日姫方区と中原区の2つの地区の田ん中のしこ名、水源などについて、それぞれの区長さんに尋ねに行った。田ん中のしこ名については姫川で10箇所ぐらい聞けたけれど、中原区の方ではずっと「田ん中」としか言ってなかったらしく、良く聞くことができなかった。それぞれの区では今年区長になったばかりでよく分からないとのことで、詳しい古老の方を紹介して下さった。田やその水源などだけでなく、昔の戦争のことの話などもしてもらってすごく良かった。地図中にも書いているように、六ノ坪橋という所は、明治7年2月に佐賀の乱で合戦が行われた所であり、34号線の南の道が昔の参勤交代があった時に使われた道で、その通りに馬を洗うための用水路があって、岡崎屋という今も残っている宿場町に寝泊まりしたということだった。 中原区の区長さんには工藤さんという方を紹介して頂き、姫方や中原よりずっと北にある水源や分水点を案内してもらった。 以上が調査の流れである。しこ名や水源、水の供給などについては地図や以下に詳しく書いておきます。(地図省略:入力者) 田ん中のしこ名 下川原(しもごうら) 西川原(にしごうら) はらだ 一本松(いっぽんまつ) 上小路(うえしゅうじ) 中小路(なかしゅうじ) 下小路(したしゅうじ) 石倉(いしくら) 読み方は佐賀の方言っぽいらしい 水路(しいど、ほり)のしこ名 これについてはあまり知っていらっしゃらなかったので、よく分からない。ただ「姫方のがったんこ」と呼んでいたらしい井堰があったらしい。 その他、道路、橋のしこ名 これについてもあまりよく分からないが、参勤交代に使われた34号線の南にある旧長崎街道や今でもその名が残っている政所橋(まんどころばし)があげられた。 用水の供給源 姫方、中原地区の用水の供給源は山の方にある山田というところらしい。山田橋というところに、一の瀬という井堰がある。その辺りから寒水川となどにつながっている。その他に大井手という井堰も聞いたがよく分からなかった。 水利をめぐる旧慣行(水を分ける際の取り決め) 昔、佐賀の治水を行った人物に、成富兵庫茂安(なりどみ ひょうご しげやす)という人がいた。僕もサガし出身なので小学校の社会科の授業で習ったことがあり、この人の名前を知っていたのだけど、この人物が中原地区全体の治水を行ったらしい。いろいろな水路を設けて全体にうまくいきわたるようにしたということです。 水を分け目際の取り決めについては、中原というのは山に近いところということで、北に住んでいる人たちに水の権利なんかがあり、南の方に住んでいる人たちはお金抔と引き替えに水の供給を行っていたらしい。現在も一万円程度で。その他、一時間おきに水番をしたりしていたそうです。干ばつの時は池の水なども使い何とかやっていたが、それでもどうしても足りない場合はやはり稲がとれなかったりもしたらしい。 水については言い伝えが法律という感じで、警察もタッチしない農地委員会というのがあり、その地区ごとにいろいろな取り決めがあったということです。その中で、水道切り流し公役というのがあったり、水番、水の臨時割なども決められたりしているそうです。また、水路の石を少しでも動かしたら打ち首にされるとかも言われていたらしい。 以上が今回の報告です。なかなか調べたいことが調べられなかったみたいで、あまりよい成果が得られなかった。でも、区長さんにをはじめ協力して下さった方々は皆いい方ばかりで、いろいろ親切にして頂き大変感謝しています。 当日カメラを持って行くのを忘れ、せっかく案内して頂いた水源や分水点の写真をとることができなかったので、7月18日に他のグループの調査にも参加して写真をとってきました。その写真も付け加えて今回の調査成果としたいと思います。 最後に協力して下さった方々の名前と生年を聞くのを忘れていたので、それぞれの区長さんの名前だけ書いておきたいと思います。 姫方区 鶴九郎さん 中原区 蘭栄之さん |