現地調査レポート/佐賀市久保田町/徳間・上恒安 <調査者> 平山聡 福田善之 <徳間> 番号、名前……由来 1. あば(場)……水路の水取口。昔の酒造会社の水くみ場があったので呼ばれるよう になった。その後、付近の田もそう呼ばれるようになったらしい。 2. 町裏……徳万町を通る旧34号線の裏の辺りから 3. くせ田……水が取り入れにくかったため 4. 八反角……八反あったことから (2.3.4.は家の中で使われている。) 5. 水田……湿田だったので 6. 土井の上 7. よう昌庵……昔、庵寺があったので 8. 仁田々 9. この辺りは他の地区の人が来て耕作していたため不明 10. 仁田々の堀 11. よう昌庵の堀 12. 高土井……堤防の名前 13. 禅門水系……水路(自分たちの村に作っている。そのため、水争いはあまりなかったらしい) 14. 水取井樋……水路 <上恒安> ※ 徳間の場合と違い水路に名前がついていた。 1. 間者さん 2. 四隅……十字路より 3. 古賀どん橋 4. 野狐堀 5. 竜の口 6. 東の雄鹿 7. 西の雄鹿 8. 瓦焼 9. 内屋敷……権現様の近くにあるので 10. 観音さん 11. 芦堀 12. 田和井戸 13. し井火 14. 天堀橋 15. 三十六 16. 丁長 17. 口の堀 18. 金丸 19. 地蔵 20. 乗越……上恒安の水が入ってきていたところ 21. この辺りが上恒安の中の一等田であった。7俵半~8俵とれたらしい。 ※ 裏作は、昔―そらまめ / 今―麦 ※ 先年の干ばつの時は大きな影響が出たらしい。この時は村で水管理をした。 ※ 人口はここ数年のうちに30戸から150戸へと5倍近くに増加している。 ・ 久保田とは「窪田」の当て字であり、昔は8本の堀があったそうである。今では区画整理により4本に減少。 ・ 「徳間」という名は戦後の地名であり、人口の増加により「快方」から独立したそうである。また、「徳久町」という地名は元禄13年から使われており、宿場町でありながら「〜宿場」などを使わず「〜町」としたのはめずらしいと原田さんはおっしゃっておられた。 ・ この辺りに寺が多いのは、江戸時代に処刑場が近くにあり、その人々を供養するためだと思われるそうだ。処刑場は現在、千人塚としてまつってあるそうである。 ・ 徳間での田の良し悪しは禅門水系を境に南側が良田であり、北側の方が田の質は悪いそうである。その比は10のあたり現在で10俵と9俵半程度であり、昔は8俵と7俵程度である。 上恒安では「竜願寺」のあたりが1番よく、昔で7~8俵とれたそうである。 ・ 先年の干ばつでは、徳間では水路が多いため、水不足はなかったが、他の村との関係上、節水は行っていたそうである。それに対し、上恒安では、村に入ってくる水路が1カ所であるため、水不足の害は非常に影響をうけたそうであった。しかし、どちらの村でもおっしゃっていたことだが、水不足の時よりかは、4,5年前の台風の方が被害が大きかったそうである。 お話をうかがった方 <徳間> 原田利春様(70才) <上恒安> 鶴丸俊孝様(昭和8年生) |