現地調査レポート/佐賀市久保多町/下満・福所・福島

 

行き先:久保田町 下満、福所、福島

 

話を聞いた人:大坪俊治(62才)

       中島敏治(48才)

       原田まさお

       中野未口

       江口よしのり(56才)

       ながたてるじ(一番年長者)

       原田まさあき(58才)

 

しこ名の一覧〈田〉・十五(じゅうご)

         ・八田(はった)

         ・中高(なかたか)

         ・念仏道(ねんぶつどう)

         ・十五左衛門(じゅうござえもん)

         ・門田(かどた)

         ・露無(つゆなし)

         ・丁永(ちょうなが)

         ・八区(はっく)

         ・地蔵(じぞう)

         ・三ノ坪(さんのつぼ)

         ・中ノ坪(なかのつぼ)

         ・十七(じゅうしち)

         ・西丁(さいちょう)

         ・荒木(あらき)

 

      〈堀〉・なかんつぼ

         ・さなつぼ

         ・へいしんがい

         ・ねこばし

         ・石ばし

         ・さくじゃ

         ・ていじんぼり

         ・さんすけ

         ・うまぼい

         ・西丁(にしちょう)

         ・中ノ坪(なかのつぼ)

         ・三ノ坪(さんのつぼ)

         ・八区(はっく)

         ・東丁(ひがしちょう)[(ちょう)永堀(ながぼり)]

         ・口登(くちのぼり)

         ・金丸堀(かなまるぼり)

         ・八筋堀(やすじぼり)

         ・正弱(しょうじゃく)

堀(ぼり→ぼい)と発音する

      〈橋〉・龍正(りゅうしょう)

      〈水路〉・小弱(しょうじゃく)

 

当日の行動

 924分の普通電車に乗り、1060円かけて1130分ごろに久保田駅についた。電車を降りて、駅前にある店に入り、そこで田んぼのことをまず聞いて、どこに行けばよいか聞いた。途中、お腹がすいたので、神社によって、境内で昼食をとった。そこにおばあさんがいたので田んぼについて聞いたが、情報は得られなかった。

それから大分歩いて、福所についた。そこで、適当にそのあたりの家で、田んぼのことを知っていそうな人の家を聞いた。すると、「あの家は昔からお百姓さんをしている」と教えてくれたのでそこに、行ってみると、江口よしのりさんが、イスにニスを塗っていた。江口さんは家の周辺の福所の田んぼのしこ名について教えてくれた。そこで、また田んぼのことについて知っていそうな人を紹介してくれたが、その人はしこ名については何も知らなかった。なので、その周辺で一番年長のながたてるじさんを紹介してくれた。が、お年寄りでいらっしゃったので、記憶があいまいだった。

その人からの紹介で、校長先生をしていた、中野和さんの家を訪ねたが、いなかった。なので、その後すべての調査を終えた後、またその家を訪ねた。そして、中野和さんにやっと会えて、いろいろな資料をさがしてもらったが、その時には見つけられなかったので、見つかったときに送ってもらうように頼んだが、今(728日)はまだ届いていない。(なので、今のところ下満の田んぼのしこ名についてはわかっていない)

それから、福島に向かって、田んぼの中をずっーと歩いた。その途中で、バイクに乗った、いかにも農業をやっていそうなおじさんがいたので、呼び止めて田んぼのしこ名についてたずねた。聞いてすぐには、忘れていたようだったが、時間が経つにつれて思い出してくれたので、たくさん情報が得られた。そこで、福島周辺の昔の水利のあり方についても知ることができた。

話によれば、4月から10月まで落水していたらしい。洪水など起きない限りはずっと(1日中)嘉瀬川からとり入れていた。それは、係が決まっていたらしいです。そのおじさんに聞き終わった頃から雨が降り出してきて、そのまま本降りになったので、みんなびしょびしょに濡れてしまった。その間も頑張って聞き取り調査に励んだ。雨が降っている間にも、3件の家に聞いたが、そこではしこ名についての情報は得られなくて、昔のしこ名について知っている人の少なさを実感させられた。

それからあまりに雨がひどいので雨やどりをした。そこで少し休憩していると、さっきの雨が嘘のように晴れ上がった。それから田んぼをずっと歩いて、福島の南の方へ行った。そこの住民はほとんど「原田」という苗字だった。そこでは、何軒か回った後、最後に洗車をしている原田まさあきさんから、情報を得ることができた。その周辺で写真を撮った。それから来た道を通って前にも書いた中野和さんの家に戻った。その家を530分ごろに出て、その日の調査を終えた。

 

 

調査を終えての感想

野田真弓

 行った日が日曜日だったこともあってか、実際に農作業をしている人に会えなかったのが、とても残念でした。しこ名について知っているような年長者は亡くなっていたりして、なかなかしこ名について知っている人が少なくなっていて、やっぱりこういう調査が必要なんだと思いました。

 

中川彩

 私は授業中にもらったプリントの中にあった「教師は大学にだけいるのではない」という言葉を実感した。今回佐賀でいろんな人のお世話になり、すごく人間の温かさを感じた。日曜日にのんびりしている時にお邪魔したにも関わらず、気軽に質問に応じてくださってうれしかった。今回初めて佐賀に足を踏み入れたが、本場の佐賀弁もおもしろかった。久しぶりに田ん中ばっかりの所に行ったので、気持ち良かった。しこ名がどのようにしてついたのか興味があったが、おじさんもわからないと言っていた。知らない人の家に行っていろいろおしゃべりするのが楽しかった。

 

中村拓也

 佐賀県はとてものどかでいいところでした。様々な人と話ができて楽しかったけれども、しこ名について知っている方も少なくなってきているようで、なかなか大変でした。しこ名がどのようについたか、なぜつけたのかなどは、分からなかったが当時の農家の方が田ん中を大切にしていたことがうかがえました。農学部の立場からも勉強になる調査でした。

 

道菅紳介

 目的地の久保田駅まで予想以上に時間がかかり、到着したら昼になっていて、おなかはすくし、暑いさかりだった。調査をすると、農業に携わっていなかったり、もう忘れていたり、記憶が曖昧だったり、外出中だったりしてなかなか思うように進まなかった。一つ言えることはしこ名を覚えている人は確実に減っているということである。実際は、堀だったところがすべて道路になっていたりして、昔とは田の様子も変わっている。もう若い人は昔の田のことは知らず、知っている人達はかなり高齢になっている。このような調査をするのは今しかないと思った。



戻る