歩き、み、ふれる歴史学 レポート(久保田町 永里、下新ヶ江)

                            世良芳子、高木三佳

 

 バスから降りて、2人取り残されるようにバスが去って行くのを見て淋しくなった。右も左も分からないなかで、不安になりつつあったので、とりあえずお昼にしようと思って、どこか座れるところを探した。埋め立てか何かの工事をしているとことがあって、段になっているところを見つけたので、そこに座ることにし、お昼をすませた。その後、橋の向こうにお店を見つけてうれしくなり、そこにかけつけた。そこはお酒屋さんだったけれど、お菓子やアイスなどコンビニエンスストアみたいにいろいろな日用雑貨品が置いてあって、少し安心した。そこで、気を取り直して、地図を広げ、渡った橋を見印に、久保田町を目指した。しかし地図と現在の地形とは、かなり変わっていたので、地図を読み取るのになかなか苦労した。この道で本当にあっているのか…と不安だったが、家が密集しているところにとりあえず出たので、住所をみてみると…久保田町永里…と書いてあったので、2人で安心し、調査を開始した。

 

 最初とても緊張して、家を訪ねることに対し不安があった。そんなときに縁側でおばあちゃん3人でおしゃべりしている家があった。そこに行ってみよう2人で決めたが、なかなか勇気が出なかった。そこでセリフを決めて何度も練習してから話しかけた。「すみません、私達九大の者なんですが、久保田町の田んぼのしこ名を調べるという授業でうかがったんですが、よかったら協力してくれませんか…。」すると、3人のおばあちゃんは快く私達をうけいれてくれた。しかし、その中に農家の人で昔からここに住んでいる人は1人しかいなかった。しかもその人が言うには、「もうおばしゃんは覚えとらんねー、それにここらへんで知っとる人はもうみんな亡くなりんしゃったけんねー」しかし、そこで引き下がるわけにはいかないので「他に知っている人はいませんか?」と尋ねると「あそこんにきの“ひろゆきさん”って方が知っとるかもしれんねー」と教えてくれた。そこで私達は次の家を訪れるためにその家をあとにした。

 

 次によしゆきさんを訪ねると、何の応答もない。すると道の反対の方から「何ですか?」とおばさんが出てきた。そこで前と同じように一通りの説明をすると、「今、おばあちゃんは忙しかけん、あっちにおるおっちゃんに聞くとよかよ。あそこの倉庫におるけんね。おっちゃん達は強かけん、負けちゃいかんばい。ごめんねー、おばちゃん忙しかけんねー」と言って去っていった。

そこで倉庫でお話しているおじさん達に尋ねた。地図を見せ、説明してみたけれど、おじさん達の記憶がばらばらなのか、地図の読み違いがあったのか、意見の食い違いが多かった。しかしいろんな話を教えてくれた。昔は田んぼの周りは整備されていなかったので、クリークがあって、そのクリークには名前があった。その名前は田んぼの地主の名前だったりしたそうだ。

「そうけ田」という名前の田んぼがあるが、そうけというのはザルという意味で、その田んぼは水を入れてもザルのようにすぐ抜けていってしまうから、そういう名がついたそうだ。名前というものは何でも人の名とか、由来となるものがあって、ただ何の意味もなく名前がついていることはないということも教わった。いろいろ話を聞いていくうちに、「あんたたちは何学部ね?」という話になって、「農学部です」と答えると「頑張って農林水産省に入って久保田町をもっと住みやすくしてくれね」と言われた。

 他の家も、一件一件訪ねまわったが、留守が多く、人がいたとしても年齢が若かったりして知らない人ばかりだった。もう訪ね尽くしてしまったので、永里から下新ヶ江に移るころにした。

 

 

 次は効率よくいこうと思って、はしっこから順にせめていくことにした。

 まず一件目はすごく立派な家でどこが入口か分からなくて苦労した。やっと見つけ、チャイムを押したら、若い同年代の女の人が出てきた。でも一応説明をし、家の人で分かる人はいませんか?と尋ねたけれど、「今、一人なんですよー」と言われた。でも何だかすごく楽しい気分になった。同じくらいの年代の人に会えたことがうれしかった。

 そして次に隣りの家を訪ねた。そこには犬がいて、すごい剣幕で吠えてきた。ドアのところで吠えられたので、これ以上ドアには近付けなかった。幸い、ドアが開いていたので「すみませーん」と呼んでみると、子供が親を呼びに行った。かまわず犬は吠え続ける。お家の主人が出てきて「何ですか?」と聞いてきた。後ろで家族のみんなが様子をうかがっている。説明すると「うちは農家じゃないのでわかりません」と冷たくあしらわれた。怖かった。不審者のように扱われたことが悲しかった。でも、農家の人にしかわからないのかと気付き、家にトラクターが置いてあったり、大豆がほしてあったりする家を探すようにした。一つ学んだ。

 

 さっそく大豆をほしている家をみつけた。しかし、少し私達を警戒していた。説明をしたけれども、「明日、工事をするから忙しのよねー」と嫌がられた。けれど、「少しでいいからお願いします。」とたのみこんだ。すると玄関に入れてくれた。すると外からおじさんが帰ってきて話をしてくれた。けれど話の内容というのはあまり今までのと変わりがなかった。「今所有している人はほとんどが戦後に国から安く買い取ったものだからそんな名はほとんど知らんよ」ということも話してくれた。するとおばさんがその間にコーヒーを入れてくれて、「うちの息子も前、九大だったのよ」と明るく言ってくれたのでうれしかった。そして「今日永里は村祭りがあるけん、夕ごはんはみんな祭りで一緒に食べる」こととか話してくれた。やっと永里のみんなが留守だった訳がわかった。

 

 他にもいろいろまわったけれど、下新ヶ江も、わりと留守が多かった。土曜日というのに何故だろう?そんな中でおばあちゃんを見つけて、話しかけてみた。でもそのおばあちゃんもよく知らなかった。けれど「あそこの人なら、議員をしちゃったけんよく知っとるよ」と人を紹介してくれた。しかしその家を見ると忌中の紙が貼ってあって、いやな予感がした。チャイムを押してみると予感が的中して、比較的若い人がでてきた。一応説明してみたけれど、「あーこんなのは一コ上の世代の人じゃないとわからんけんねー、ちょっと私はわからんねー」と言われた。他に人を何人か紹介してもらったけど、やはり留守だった。

 

 通り道にお地蔵さんが2人いた。私達は佐賀での調査が成功するようにお祈りをした。

 

 2:00頃、全ている人には聞き終わって(いるつもり)だったので、バスで帰るか、JRで帰るか私達は迷った。そこで、大豆干しをしているおじいちゃんに、駅までの距離を聞いた。「ここからずっとまっすぐの道を行くとつく」と言われ、「どのくらいかかりますか?」と聞くと「4km」という答えが返ってきた。私達はJRで帰ることを断念した。

 

 残りの時間を最初に見つけた酒屋さんの隣りにあるクリーニング屋さんのところにあった、椅子のようなもので過ごした。そろそろ4:00になるよ、ということでバスを降りたところと道路の反対側で待つことにした。しかしなかなかバスはやってこない。こういうときって絶対バス遅れるよねーと話をするけれど、不安があった。マニュアルの方に、毎年バスに乗れない人がいると書かれていたからである。辺りはだんだん暗くなっていく。向こうから来る大きな車が全てバスに見えてきた。「あ、バスが来た!」「あ、違った…」の繰り返しだった。しかしそんな中で堀川バス特有の色合いが見えてきて、確実にバスが来たと分かり、2人で大喜びをした。こうして2人の久保田町の小さな旅は幕を閉じた。

 

 

しこ名一覧

(村の名前)  (小字・しこ名)

永里       田畑(クリーク)/新々田:タテワリ、ソウケダ、ゲンジャガラミ、

                     ウーボイ、マエボイ、ヨコセダ、コボイ

                 下三ノ坪東折:シンジャボイ、サクジャボイ

                 下三ノ坪西折:ゲンパチボイ

                 下中ノ坪:クグワラ

下新ヶ江     田畑(クリーク)/下十七:シモジュウシチ

                 王:デンジドウ

                 新々田:上に同じ

 

(聞き取りした人の名前と生まれた年)

馬田トミカ:昭和3

吉田キエ:昭和14

永川フジコ:昭和9

杉原トシエ:昭和19

石川光男:昭和6

藤吉良雄:昭和4



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