歩き・み・きく歴史学 火曜5

久保田 草木田・小路レポート            水沼智一、簑原哲弘

 

<聞取の方法>

 マニュアルに従ってお聞きしたが、何分昔のことなので、憶えておられないことがあったようである。地図を広げて、まずお宅がどのあたりにあたるのかをお聞きして、位置関係をつかんでもらい、田のしこ名、ほりの名、地図と現在の状況の違いなどをお聞きした。後に、干ばつや入会地や良田、悪田についてお聞きした。

 

<聞き取りした方>

草木田…原田和人さん 昭和15年生まれ

小路…高森康さん

(本人が不在のため、お話をお聞きすることができなかった。他の方を紹介していただこうと試みたが、休みであったので、誰もお宅にいらっしゃらなかった。よって小路についての話は聞くことが出来なかった)

 

テープ…少し聞きづらいです。

 

1日の行程  11:00~12:30 原田さん宅

1:00~2:00 高森さん不在のため人捜し。だが、どこも不在。

 

〈田としこ名〉

 初めはしこ名を尋ねても難しい顔をしてはっきりとは分からないようでした。その後、ぽつぽつと出てくるようになり、おじいさん、おばあさんや近所の人に尋ねたりなどしていただき、別紙の地図に書いてあるだけのことが分かりました。全体的に田一反につき名前が一つといった具合ではなく、その地域の田として名をつけていました。寺の裏の田、といった感じです。

尋ねる前、村を歩いている限りでは気付かなかったが、話を聞いてみると草木田のあたりも最近は田をつぶして宅地となっているようである。また、渡された地図はかなり古いもので、大幅に舗上整備がなされて変わっている場所があった。

 共有田については、竜光寺前得佛に存在した。しかしこの田は少し特殊で、久保田町の田というのではなく、他の町の人も集まっておよそ10~15人ぐらいで竹やぶを開墾して作ったのでその人々の共有田ということらしい。大権現田といっていまも竜光寺前の田にある。

 

〈河と水利慣行〉

  得佛のあたりでは百年程前などはよく水害にあった。得佛橋のあたりで急に曲がっていたためそこで洪水になったり、そこで水が一担止められることで、上流の方で洪水になったこともあったらしい。河跡は今では森林公園になっていた。また、おもしろいことに行基がこの久保田町にやって来て水害を防ぐための奉仕活動をしているので、奈良時代からこのあたりは水害にあっていたことが分かった。水利慣行については、普通河の水がかれて水無川になることはないが、一昨年の水不足は相当ひどく、水無川になったそうである。その時は、週二回ほど付近の六町村が交互に、上流のダムから流された水を引いたそうである。

 

〈土地〉

 米の収穫は減反政策によりどの田でも変わらないそうであるが、違いがあるといえば、河の左側の田は粘土質で良く米がとれ、右側は砂状質で、取れが悪いらしい。減反政策で米を作らなくなった田では大豆や飼料を作っているそうである。また、減反政策もそうだが、跡とりも少なくて最近は農家はしんどいそうで、田を売って宅地となるケースが多いみたいだ。帰りにはちょっと気をつけて見てみると、確かに新しい家が建っていた。

 

〈祭〉

 年一回、部落内の香椎神社で、百姓の家内安全、豊作、健康等の祈願祭をやるそうである。このような祭は今では草木田ぐらいでしか行なわれていないそうである。

 



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