佐賀県農村現地調査レポート(久保田町)

実施日…114()

 

<調査者>

小畠貴浩

佐藤雅則

竹田誠

徳島昭仁

 

◎佐賀県久保田町北田の秀島辰巳さんのお話

<しこ名について>

     ノイコシ(イにアクセント)

     カノキジマ

     ヘイノキワ(ヘーノキワ)

具体的な場所は地図を参照のこと(佐賀県立図書館所蔵)

 

<水利慣行について>

・嘉瀬川(久保田全域)、境川、三日月町の余り水。

     三面水路を使用。

 

<一昨年(1994)の大干ばつをどのようにして乗り切ったのか>

・水が不足するために、自由に取水できなくなり、町役場の指示による時間荊限制の取水をおこなった。決められた時間帯にきちんと取水した田んぼは、平年並の収穫が得られた。

 

※もしも同じような干ばつが、30年前に起こったとすると、どんな事が起こると予測されるか?

・水騒動が起きるだろう。また、他の町(主に三日月町)から水を買うことになるだろう。また、収穫は皆無だったであろう。

 

<村の耕地について>

・どの家も乾田、湿田は持っていた。また、場所による収穫の違いがあった。

※良田については、地図参照。

・肥料は主にし尿(家畜の糞等)

・機械は現在は23軒の共同購入。

     戦前の収穫は、良いときでは7俵〜8俵ぐらい、凶作では5俵ぐらいであった

 

<今後の日本農業の展望、村のあり方について>

1軒あたりの耕地面積が、約10ヘクタールぐらいになるだろう。ちなみに、現在は1軒あたり約1ヘクタール。

1部落(現地の方がおっしゃるところの部落)34軒の兼業農家で構成されるだろう。※現在も大半が兼業農家である。

・農協の縮小、大規模農業化、経費節約、米の価格引下げ等。

・この付近(北田)は、みんな農業を継ぐだろう。

〈協力してくださった方の氏名、生年月日〉

秀島辰巳さん昭和28年生まれ

     事前に指示されていた中野梓さんは、御都合が悪いため、

その中野さんよりハガキで御紹介頂いた秀島さんに尋ねました。

 

◎佐賀県久保田町下満の稲股三郎さんのお話

<しこ名について>

     タカマチ

     クタンツボ

     シチノワイ

     ハッタンガク

     ロクタンガク

     ニシダ

橋のしこ名

     ヘイヤバシ

     オノギバシ

     コガドノバシ

ほり(クリーク)のしこ名

     ヤスジボイ(8本ある)

 

<水利慣行について>

・全部嘉瀬川から取水。取水した水はヤスジボイを通して、久保田町全域にいきわたっていた。このヤスジボイを持たない三日月町や芦刈町の人々は苦労していたようだ。

・境川の水は一部排水路として使われており、取水できる場所では、芦刈町の部落の人々以外は取水してはいけなかった。

・三日月町では、嘉瀬川の水の他にたま水(雨水のたまったほり)を使用してい

た。

 

<一昨年(1994)の大干ばつをどのようにして乗り切ったのか>

・役場からの指示により、時間制限で取水をおこなった。収穫量は平年並み。

 

※もしも同じような干ばつが、30年前に起こったとすると、どんな事がおこると予測されるか?

・一昨年よりも苦労することはないだろう。なぜなら、久保田町にはヤスジボイがあり、常に水が十分に供給されているからである。

・ヤスジボイは半分くらい埋められてしまったため、一昨年は水が不足して、時聞制限が必要になった。

     昭和12年に干ばつがあったが、その時はヤスジボイが埋められてなかったため、時聞制限は必要なかった。

 

<村の耕地について>

・農業が機械化されても、収穫量はほとんど変わらず、満作時10俵、平均8俵である。

・馬を使って耕作していた(正軒に1)が、昭和36年頃機械化。ちなみにお話してくださった稲股さんは、昭和36年に個人で耕運機を購入し、今でも使用しているそうである。

・大半が兼業農家である。

・肥料は化学肥料(戦後ぐらいから)で、材料を自分で配合して作っていた。また、材料は面積に応じて農協が配給していた。

・下満には共有の山林はない。キタコガと呼ばれていた地域(明春寺付近)には共有地があったようだが、マッカーサーの時代になくなったそうだ。

 

<今後の日本農業の展望、村のあり方について>

・ますます兼業農家ばかりとなり、田んぼを委託する農家も増えてくる。

     今後は労働力不足のため、土地を売却する事も十分ありうる。

 

<その他の稲股さんのお話>

・下満とは、三日月町の飛び地で、ニシコガと呼ばれていた。

・エミテ…潮の満ち引きの事。

・コガドノバシは、人の名前からとった橋である。これとヘイヤバシオノギバシ以外の橋は、だいたい圃場整備以後のものである。

・ヤスジボイは、南北に8本のびているから、ヤスジポイという。

・ハッタンガク、ロクタンガクは、田んぼの面積がそれぞれ8反、6反であることに由来する。

     ニシダとは、自分たちの部落よりも西側の田んぼであるからそう呼んでいたようである。したがって、非常に広い範囲の田んぼのことを差し、しこ名であるかどうかははっきりしない。しかし「今日はニシダに行く」というふうに使っていたのは間違いないようである。

 

〈協力してくださった方の浅名、生年月日〉

稲股三郎さん 大正9年生まれ

 

◎現地調査のまとめ、感想

水利慣行について、北田の秀島さんは嘉瀬川と境川、三日月町の余り水を農業用水として利用していると言われていたのに、下満の稲股さんは嘉瀬川以外からの取水はしていないと言われていた。もしかすると北田と下溝とでは取水の仕方が異なっていたのかもしれないが、これまでのレポートからも分かるように、人の記憶というものは意外とあいまいなものであるようだ。例えば今回の調査では、しこ名を忘れてしまっている人が多く、聞き出すのに非常に苦労した。また、その他に感じたことは、非常に(村のなかでの)仲聞意識が強いということである。その例として、消防団を作っていたり、村内の大半の家が顔見知りであるということだ。

今回の調査だけでも非常に苦労した事を考えると、今後はますます調査が困難になっていくと思われる。そういう意味からも、今回の調査では、完壁とは言えないまでも多くのことを調べることができて、幸運だったと思う。

 

※なお、指示されていた久保田町永里・町東の二箇所は、以下の理由で調査をする事ができませんでした。

O永里・・・・当日、消防団の訓練とその後の飲み会のため、自宅にいらっしゃらなかった。

○町東・・・・…当日場所が分からなかったため、電話をしたところ、指示された方は生産組合長ではなく県庁に勤めている方であった。そして、その方は農業についてなんの詳しい知識も持っておられないということであった。

※また久保田町役場は、日曜日のため閉まっていたので、利用できなかった。

 



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