歩き・み・きく歴史学レポート 吉野靖啓 今回調査したのは佐賀郡久保田町快万であるが、まずこの地名についてであるが、古老たちは快万を「かやま」と発音していた。 しかし、若い人は「かいまん」と発音するそうである。 快万の生産組合長さんは出始め式でお留守とのことで古老の方を御紹介いただいた。 <お話を伺った人> 満岡久男さん 大正15年生まれ 江口克巳さん 昭和4年生まれ <聞き取り及び調査の方式> 午前11時30分ごろに御紹介いただいた江口さん宅に着き、家の中でお話を伺うことにした。その後電話で満岡さんを呼んでいただき、お茶を飲みながら3人でお話をすることとなった。 <村の範囲> 快万(かやま)の集落の範囲は現在では地図のように狭い区域ではあるが、昔は久保田駅近辺の北田や嘉瀬川の西の徳間もその範囲に含んだという。 <田ん中のしこ名及び堀の名前について> (北から順に) □で囲まれた中の名称がしこ名、ただし、赤線で囲まれた所は古文書に名の残っているもので、しこ名とは区別した。 青線は堀。 (地図は佐賀県立図書館所蔵) ・本能寺裏・・・本能寺の裏の田ん中という意味。本能寺自体は京都の本能寺とは関係はないそうである。 ・北島・・・この近辺は干拓地なので、干拓前に島があったのでは?という話。 ・鹿木島・・・「かのきじま」といい、鹿木島堀から水をとっている田ん中の意であるが、この区域は広く、一平堀(いちべいぼい)、鹿堀(おじかぼい)からも水をとっている。この中にある「てんぐの鼻」はその形からよばれているもので、正式な名称ではないようである。 ・宮ふけ・・・宮ふけ堀から水をとっているという意味であるが、ここでの宮は香椎神社で、この香椎神社は福岡にある香椎宮と同じ系列であり、まつってあるのは神功(?)皇后であり、この神功皇后があわ畑で生まれたというエピソードからこの近辺ではあわを作ることはおそれ多いということで禁止されたという。 ・道安・・・道安は「道安さん」という医者の名のようであり、江戸時代くらいから呼ばれているようである。 ・阿弥陀堂・・・以前ここには阿弥陀堂があったが、今は京都の方に文化財として移転されたとのこと。 ・下の宮・・・これも香椎神社に関係した名のようである。 ・権限さんのにき・・・王子大権限の周辺の意。「にき」は地元の言葉で「〜周辺、〜近く」という意味。 ・正寺の内・・・神仏習合の時にはここに神宮寺があったためこの名が残っているが、明治時代の神仏分離政策の時に取り壊されたという。この寺が阿弥陀堂を管理していた。 ・西田・・・この中にある古観音(ふっかんのん)は昔ここに観音堂があったための名であろうとのこと。 ・小太さん屋敷・・・何がしの小太郎という人の家があった。そこから「小太さん」となったという。 ・火薬庫堀・・・快万の南部に殿様屋敷というのがあるが、これは竜造寺氏の末えいの村田氏の屋敷であり、その火薬庫があったという。尚、「小路」という地名も当時の武家屋敷があった近辺の入り組んだ袋小路からきた名だという。 ・鋤崎・・・その形が鋤に似ているということから。 ・きゃーもと・・・何をもって「きゃーもと」というかは分からない。 ・金丸、向金丸・・・「金丸」・「向金丸」という位置関係は屋敷田のところにある江口さん宅から見た場合の位置関係である。また金丸近辺からは以前干拓地だったことを示す貝殻などが見つかるという。 ・思斉学館・・・この地を治めていた村田氏の作った学校。 ・大雲寺・・・村田氏の菩提寺。 <水利慣行及び関連事項> 快万を含む久保田町全域の水源はかつてすべて嘉瀬川であり、地図にある水取り口から久保田町へ水が供給されていた。この水取り口は以前「樋番さん」がおり、ここにその小屋があったそうであるが、今は役場の管理に置かれている。 ・戸立・・・戸立は願福寺周辺に水をまわす際に水をせき止めるもの。 ・井出・・・水を各所へまわす際水をせき止めて水位を上げるもの。 現在では農業用水はダムから幹線水路を通してきた水をそれぞれの堀におとして使用している。久保田町は昔から水の便がよく水争いなどはなかったそうだが、本能寺近辺は水争いが絶えなかったという。 ・竜の口・・・大水の時の排水を久保田を通して有明海に流すもの。城原川(以前あったそうである)が大水を起こした時のみ、この竜の口を開ける申し合わせであった。やはり、多少の被害は出るため、こうした申し合わせがあるようである。 ○主な水害 28水・・・昭和28年の水害で嘉瀬川が佐賀医科大付近で堤防が決壊、佐賀市内が被害を受けた。 24水・・・昭和24年の水害で祗園川の堤防が決壊、久保田町が被害を受けた。快万も床上浸水で米にもかなりの被害をうけたが、もっと下流域では屋根のあたりまで水に浸かり米も絶望的であった。 <一昨年の旱魃について> 一昨年の旱魃では幹線水路を使った時間給水が行われたが、それほど大きな被害はなく、米の作況指数も平年並みであった。久保田町は昔から水が枯れたことはないという。 一昨年の米不足ではタイ米輸入なども行われたが、九州の米はそれほど不作ではなかった。日本の米市場を左右するのは九州の米ではなく、北日本の米であるとのことであった。 <圃場整備について> 久保田町では昭和45年から昭和52年にかけて行われた。大型の耕運機が使われだしたのはその頃からであるが、小型のものは昭和28年ごろから使われていたという。それ以前は馬を使っていた。 話を伺ったお二人は圃場整備は計画通りにいかなかったと話しておられた。例えば地図中のA点とB点では高低差が1m40cmくらいあるが、そのあたりの調査が不十分なままに机上の計画のみで工事も行ったため、下流域では水路の水があふれてしまいけっきょくまたお金を使って整備しなおさなければならなかったという。 <福所について> 福所の調査はできなかったが、お話の中でわかった堀の名前を書いておいた。この堀は全部で8本あることから八すじ堀と言われている。 |